回复: clannad渚线剧本注音计划(一周目进行中)
ただ、惰性(だせい)のように生(い)きていた。起(お)きて、仕事(しごと)にでかけて、食(た)べて、寝(ね)て…体(からだ)が覚(おぼ)えていることを、繰(く)り返(かえ)すだけ。そんな日々(ひび)に生(い)きていた。「休(やす)んだら、どうだ」
何度(なんど)も聞(き)いた文句(もんく)が、耳(みみ)に張(は)りついていた。
でも、俺(おれ)はそうしなかった。
休(やす)みも返上(へんじょう)で働(はたら)き続(つづ)けた。
けど、仕事(しごと)は毎日(まいにち)のようにあるわけでもなく、どうしても、暇(ひま)はできてしまった。
ある時(とき)、その暇(ひま)を埋(う)めるために、お金(かね)を使(つか)ってみた。
そうすると、思(おも)っていた以上(いじょう)に、その間(あいだ)は無心(むしん)でいられた。
その日(ひ)から俺(おれ)は、仕事(しごと)でお金(かね)を貯(た)めて、できた暇(ひま)を潰(つぶ)すために、お金(かね)を使(つか)い続(つづ)けた。
アルコールも飲(の)むようになった。タバコも吸(す)うようになった。
でも、ふと現実(げんじつ)を見(み)つめれば、足元(あしもと)から崩(くず)れ落(お)ちていきそうになる。
自分(じぶん)は人(ひと)より、弱(よわ)くできているのだろうか。
それとも、人(ひと)以上(いじょう)に悲(かな)しい出来事(できごと)があったのだろうか。
よくわからなかった。
ただ言(い)えるのは、自分(じぶん)には辛(つら)すぎる、それだけだ。
だから、無我夢中(むがむちゅう)で、体(からだ)を動(うご)かし続(つづ)け、暇(ひま)を潰(つぶ)し続(つづ)けた。
考(かんが)える隙(すき)をなくすように。
早苗(さなえ)「ほら、パパですよ」
早苗(さなえ)さんの声(こえ)が近(ちか)くでした。
早苗(さなえ)「パパ。わかりますか?
ほら」
太股(ふともも)に、小(ちい)さな何(なに)かが触(ふ)れる。
俺(おれ)は辛(つら)かった。
早苗(さなえ)さんは、あまりに失(うしな)った人(ひと)に似(に)すぎていて。
そして、俺(おれ)の足(あし)に触(ふ)れている小(ちい)さな手(て)の主(あるじ)も。
顔(かお)を伏(ふ)せる。
ああ、俺(おれ)はこんなにも脆(もろ)い。
許(ゆる)してください、と小(ちい)さく呟(つぶや)いた。
早苗(さなえ)「すみません…」
早苗(さなえ)さんが謝(あやま)る。
朋也(ともや)「いえ…悪(わる)いのは俺(おれ)のほうっすから…」
早苗(さなえ)「それでは今日(きょう)は帰(かえ)りますね」
この辛(つら)さを忘(わす)れるには、早苗(さなえ)さんやオッサンから逃(に)げるべきだと思(おも)った。
でも、俺(おれ)にはそれができなかった。
あんな素敵(すてき)な人(ひと)たちを裏切(うらぎ)るわけにはいかない。
だから、ずっと辛(つら)さを抱(かか)えたままでいた。
それに辛(つら)いのは、俺(おれ)だけじゃない。早苗(さなえ)さんやオッサンも同(おな)じなはずだった。
それでも、早苗(さなえ)さんは、週(しゅう)に一度(いちど)は俺(おれ)の子(こ)を連(つ)れて、会(あ)いに来(き)てくれた。
1年(ねん)が過(す)ぎ…2年(ねん)が過(す)ぎ…
もうあの日(ひ)からどれだけ月日(がっぴ)が経(た)ったとか…
そういうことも考(かんが)えられないぐらいに、がむしゃらに生(い)きた。
でも、ただひとつだけ、俺(おれ)に時間(じかん)の流(なが)れを突(つ)きつける存在(そんざい)があった。
汐(うしお)だった。
汐(うしお)だけは変(か)わり続(つづ)けていく。
会(あ)うたびに、大(おお)きくなり、顔(かお)つきをはっきりとさせていく。
あの悲(かな)しかった出来事(できごと)は、本当(ほんとう)にあったことで…
そして、もうそれは…遠(とお)い日(ひ)の話(はなし)なのだ。
なんて残酷(ざんこく)なんだろう。
そう思(おも)った。
だから、汐(うしお)が幼稚園(ようちえん)に入園(にゅうえん)する日(ひ)も、俺(おれ)は仕事(しごと)で体(からだ)を動(うご)かし続(つづ)けていた。
そして、今年(ことし)もまた、暑(あつ)い夏(なつ)がきた。
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さん、こんにちは」
ある日曜(にちよう)の午後(ごご)、早苗(さなえ)さんが部屋(へや)を訪(おとず)れた。
いつものように、汐(うしお)を連(つ)れてきていると思(おも)ったら、ひとりだった。
早苗(さなえ)「すみません、今日(きょう)は汐(うしお)は連(つ)れてきていません。秋生(あきお)さんに預(あず)けてきました」
俺(おれ)の視線(しせん)が早苗(さなえ)さんの足元(あしもと)をさまよっていたことに気(き)づいたのだろう。
朋也(ともや)「ええ…構(かま)わないっすよ」
早苗(さなえ)「今日(きょう)はとても暑(あつ)かったです」
朋也(ともや)「そうですか」
早苗(さなえ)「休(やす)みなのに、ずっと部屋(へや)にいるんですか?」
朋也(ともや)「ええ。普段(ふだん)が肉体労働(にくたいろうどう)っすからね。休(やす)みの日(ひ)は、ずっと部屋(へや)で寝(ね)ていたいんです」
早苗(さなえ)「ダメですよ、朋也(ともや)さん。少(すこ)しは外(そと)に出(で)て、リフレッシュしないと」
朋也(ともや)「こんな暑(あつ)い中(なか)、ひとりで出(で)かけたって、むなしいだけっすよ」
早苗(さなえ)「じゃあ、わたしと出(で)かけてください」
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さんとですか?」
早苗(さなえ)「はい。デートしましょうっ」
悪(わろ)びれず、にっこりと微笑(ほほえ)む。
朋也(ともや)「そういう時(とき)の早苗(さなえ)さんって、絶対(ぜったい)に何(なに)か企(たくら)んでるからなぁ…」
早苗(さなえ)「そんなことないですよ。たまには、若(わか)い子(こ)とデートもしたくなるんです」
朋也(ともや)「じゃ、俺(おれ)じゃなくて、他(ほか)に若(わか)い子(こ)を見(み)つけてくださいよ。早苗(さなえ)さんだったら、すぐ見(み)つかりますよ」
早苗(さなえ)「いいえ。朋也(ともや)さんじゃないとダメなんです」
朋也(ともや)「どうしてですか」
早苗(さなえ)「格好(かっこう)良(よ)くて、優(やさ)しくて、わたしの好(この)みのタイプだからです」
朋也(ともや)「そうですか…」
早苗(さなえ)「はい、そうなんです」
早苗(さなえ)「デートしてくれますかっ」
朋也(ともや)「まぁ、そこまで言(い)わせておいて、断(ことわ)るわけにはいかないっすよ」
早苗(さなえ)「ありがとうございます」
永遠(えいえん)に、この人(ひと)には敵(かな)わない…そんな気(き)がする。
ふたりで町(まち)を歩(ある)いた。
駅前(えきまえ)にはしばらく来(き)ていなかったが、その間(あいだ)に随分(ずいぶん)と様変(さまが)わりしていた。
商店街(しょうてんがい)の向(む)こうに、昔(むかし)にはなかったビルが乱立(らんりつ)している。
朋也(ともや)「変(か)わりましたね…」
早苗(さなえ)「そうですね。朋也(ともや)さんは、あまり来(こ)ないんですか?」
朋也(ともや)「ええ。仕事(しごと)で来(こ)なければ、まったく」
早苗(さなえ)「では、ゆっくり見(み)て回(まわ)りましょう」
新(あたら)しくできたデパートを、早苗(さなえ)さんと見(み)て回(まわ)った。
ブティックとか、時計(とけい)売(う)り場(ば)とか。
本当(ほんとう)にデートをしているみたいで、久々(ひさびさ)に楽(たの)しい気分(きぶん)になれた。
歩(ある)き疲(つか)れると、早苗(さなえ)さんは、俺(おれ)をファミレスへと誘(さそ)った。
早苗(さなえ)「ストロベリーパフェください」
朋也(ともや)「はは…早苗(さなえ)さん、女学生(じょがくせい)みたいですよ」
早苗(さなえ)「後(あと)、日本茶(にほんちゃ)をください」
朋也(ともや)「今(いま)ので一気(いっき)におばさんくさくなりました」
早苗(さなえ)「失礼(しつれい)ですね、朋也(ともや)さんは」
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さんも、頼(たの)んでください」
朋也(ともや)「えっと、それじゃ俺(おれ)は…ケーキセット」
朋也(ともや)「飲(の)み物(もの)はアイスコーヒー」
ウェイトレスがオーダーを繰(く)り返(かえ)した後(あと)、立(た)ち去(さ)る。
早苗(さなえ)「とても、暑(あつ)かったですね」
朋也(ともや)「ええ、汗(あせ)で気持(きも)ちわるいっす」
でもすぐに、効(き)きすぎるぐらいに効(き)いた冷房(れいぼう)が乾(かわ)かしてくれるだろう。
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さんは、この夏(なつ)、まとまった休(やす)み取(と)れるんですか?」
朋也(ともや)「取(と)ろうと思(おも)えば取(と)れますよ。盆休(ぼんやす)み」
朋也(ともや)「でも、休(やす)んだってやることないですから、仕事(しごと)してたいっすよ」
早苗(さなえ)「じゃあ、どこかへ出(で)かけませんか?」
朋也(ともや)「ふたりでですか?
それはかなりドキドキするッス」
早苗(さなえ)「違(ちが)います。わたしと秋生(あきお)さんと朋也(ともや)さんと…そして汐(うしお)とです」
朋也(ともや)「汐(うしお)…ですか」
朋也(ともや)「やっぱり考(かんが)えてたんですね、そういうこと」
早苗(さなえ)「考(かんが)えてたとか、そういうのではありません。思(おも)いつきです」
朋也(ともや)「でも、汐(うしお)を連(つ)れていくなんて…危(あぶ)なくないっすか」
早苗(さなえ)「ちゃんと目(め)を離(はな)さずにおけば、大丈夫(だいじょうぶ)です」
早苗(さなえ)「それに、幼稚園(ようちえん)も夏休(なつやす)みですから…思(おも)い出(で)作(つく)ってあげたいじゃないですか」
早苗(さなえ)「朋也(ともや)さんは、そうは思(おも)いませんか?」
朋也(ともや)「そうっすね…思(おも)うっすよ…」
早苗(さなえ)「どうしましたか?
あまり気乗(きの)りしないですか」
朋也(ともや)「ええ…だって…」
朋也(ともや)「俺(おれ)は子育(こそだ)てとか、そういうこと放棄(ほうき)して…ぜんぶ早苗(さなえ)さんやオッサンに押(お)しつけちゃって…」
朋也(ともや)「そんな夏休(なつやす)みの思(おも)い出(で)に入(はい)る資格(しかく)なんてないっすよ…」
早苗(さなえ)「資格(しかく)じゃないです。義務(ぎむ)ですよ、親(おや)としての」
そう言(い)われてしまうと、俺(おれ)はただ、情(なさ)けなく顔(かお)を伏(ふ)せることしかできなかった。
朋也(ともや)「…それに、あいつだって、俺(おれ)なんていないほうがいいんですよ」
朋也(ともや)「…俺(おれ)なんかに懐(なつ)いてないっすから」
どうにか、そう呟(つぶや)いてみせた。
早苗(さなえ)「いえ、汐(うしお)は、ずっと寂(さび)しがっているんですよ」
早苗(さなえ)「ずっと、お父(とう)さんがそばにいなくて」
朋也(ともや)「…そんなことないです」
朋也(ともや)「ずっと、いなかったんだから…」
早苗(さなえ)「じゃあ、この夏休(なつやす)みに取(と)り戻(もど)せばいいじゃないですかっ」
朋也(ともや)「今更(いまさら)、そんなことできないっすよ…」
早苗(さなえ)「できます。朋也(ともや)さんは優(やさ)しい人(ひと)ですから」
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さんは、俺(おれ)を買(か)いかぶりすぎです」
朋也(ともや)「俺(おれ)は格好(かっこう)良(よ)くもないし、優(やさ)しくもないし、卑屈(ひくつ)で、弱虫(よわむし)で早苗(さなえ)さんの嫌(きら)いなタイプのはずです」
早苗(さなえ)「そんなことないです。わたしは、朋也(ともや)さんのこと大好(だいす)きですよ」
言(い)って、俺(おれ)の手(て)の上(うえ)に、自分(じぶん)の手(て)を重(かさ)ねた。
朋也(ともや)「………」
じっと、それを見(み)つめた。
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「…もう少(すこ)し、考(かんが)えさせてください」
早苗(さなえ)「はいっ」
その後(あと)、早苗(さなえ)さんから電話(でんわ)が毎日(まいにち)のようにかかってきた。
内容(ないよう)はすべて、旅行(りょこう)の件(けん)だった。
早苗(さなえ)『考(かんが)えてくれましたか?』
朋也(ともや)「いや…まだっすけど…」
早苗(さなえ)『じゃあ、10分後(ぷんご)にかけ直(なお)しますね』
朋也(ともや)「いや、明日(あした)にしてほしいんですけど…」
早苗(さなえ)『わかりました。明日(あした)の朝(あさ)、かけますね』
朋也(ともや)「いや、仕事(しごと)なんで、夜(よる)にしてほしいんですけど」
早苗(さなえ)『わかりました。じゃ、夜(よる)にかけますね』
朋也(ともや)「はぁ…」
そんな具合(ぐあい)に、俺(おれ)の返答(へんとう)をせっつき続(つづ)けた。
朋也(ともや)(すげぇ熱意(ねつい)…)
朋也(ともや)(どうやって、断(ことわ)れっての…)
結局(けっきょく)、押(お)しきられるようにして、俺(おれ)は苦(くる)しげに…
朋也(ともや)「わかりました…よろしくお願(ねが)いします」
と告(つ)げてしまったのだった。
汐(うしお)を連(つ)れていこうが、懐(なつ)いているのは早苗(さなえ)さんとオッサンなので、そうそう関(かか)わることもないだろう。
単純(たんじゅん)に旅行(りょこう)だけを楽(たの)しめばいいんだと自分(じぶん)を納得(なっとく)させた。
俺(おれ)は三日(みっか)の休(やす)みを取(と)り、日曜(にちよう)を足(た)して四連休(よんれんきゅう)を作(つく)った。
早苗(さなえ)さんやオッサンも、その日(ひ)に合(あ)わせて休(やす)みを取(と)ることになった。
旅行(りょこう)の行(い)き先(さき)や、段取(だんど)りは早苗(さなえ)さんに任(まか)せっきりだ。
とりあえず、東北(とうほく)のほうだということだけは聞(き)いたが、それ以上(いじょう)詳(くわ)しくは聞(き)かなかった。
支度(したく)は、2日分(ふつかぶん)の着替(きが)えをバッグに詰(つ)めただけで終(お)わった。
早苗(さなえ)さんとの旅行(りょこう)だ。私物(しぶつ)以外(いがい)に何(なに)もいるわけがなかった。
俺(おれ)が気(き)を利(き)かせなくても、必要(ひつよう)なものはすべて揃(そろ)えられているはずだ。
…目覚(めざ)まし時計(とけい)の音(おと)で目覚(めざ)める。
いつもと何(なに)も変(か)わらない朝(あさ)だった。
頭(あたま)の重(おも)さや、布団(ふとん)への未練(みれん)、何(なに)も変(か)わらない。
ただ、今日(きょう)は行(い)き先(さき)が違(ちが)うだけだった。
仕事場(しごとば)じゃなく、古河(ふるかわ)の家(いえ)。
そして、しばらくこの部屋(へや)には帰(かえ)ってこない。
顔(かお)を洗(あら)い、歯(は)を磨(みが)き、着替(きが)えを終(お)える。
後(あと)は出(で)かけるだけだった。
朋也(ともや)(今(いま)から出(で)るっていう、電話(でんわ)しておいたほうがいいかな…)
電話(でんわ)を見(み)つめる。
朋也(ともや)(向(む)こうは、支度(したく)でてんやわんやかもしれないしな…)
そのまま家(いえ)を出(で)ることにした。
ここに来(く)るのも久(ひさ)しぶりな気(き)がした。
オッサンの顔(かお)もしばらく見(み)ていない。
何(なに)を言(い)われるだろうか。
怒(おこ)られたりしないだろうか…。
考(かんが)えてみてから、笑(わら)った。
いつだって、罵声(ばせい)を浴(あ)びせさられてたじゃないか、あの人(ひと)には。
朋也(ともや)「ちぃーすっ」
昔(むかし)のように、客(きゃく)の顔(かお)をして店(みせ)に入(はい)る。
………。
…無人(むじん)だった。
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さーーーん!」
………。
朋也(ともや)「オッサーーーン!」
………。
…返事(へんじ)はない。
待(ま)ち合(あ)わせ場所(ばしょ)を間違(まちが)えたのだろうか?
もしや、俺(おれ)のアパートに向(む)かっていて、すれ違(ちが)いになったのだろうか?
だとしても、鍵(かぎ)が開(ひら)いてるというのはおかしい。
いくら窃盗事件(せっとうじけん)が少(すく)ない町(まち)だといっても、旅行(りょこう)の前(まえ)には鍵(かぎ)ぐらいかける。
…嫌(いや)な予感(よかん)がしてきた。
俺(おれ)は勝手(かって)に家(いえ)の中(なか)にあがる。
居間(いま)までくると、テーブルの上(うえ)に目立(めだ)つように紙(かみ)が載(の)せられていた。
書(か)き置(お)きだった。
それを手(て)にとり、目(め)を通(とお)す。
…朋也(ともや)さんへ
…急用(きゅうよう)ができてしまい、秋生(あきお)さんとしばらく出(で)かけることになってしまいました。
…ですので、旅行(りょこう)のほう、汐(うしお)とふたりでよろしくお願(ねが)いします。
…古河早苗(ふるかわさなえ)
…P.S.交通手段(こうつうしゅだん)やルートは、裏面(りめん)に書(か)いておきました。
………。
朋也(ともや)「う…」
朋也(ともや)「嘘(うそ)だろ…」
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さんに完璧(かんぺき)ハメられてんじゃん、俺(おれ)…」
人(ひと)の気配(けはい)がして、振(ふ)り返(かえ)る。
すると、ドアの向(む)こう、隠(かく)れるようにして、こっちを見(み)ている小(ちい)さな子供(こども)がいた。
すでにリュックを抱(かか)え、支度(したく)も済(す)ませてあった。
汐(うしお)「………」
黙(だま)って見(み)つめ合(あ)う。
汐(うしお)は、俺(おれ)に寄(よ)ってくることもなかった。
朋也(ともや)「な、早苗(さなえ)さんとオッサン、しばらく居(い)ないんだってよ…」
朋也(ともや)「おまえ、どうする」
汐(うしお)「………」
汐(うしお)「…さなえさん」
小(ちい)さく口(くち)が動(うご)いた。
朋也(ともや)「いや、だからさ…早苗(さなえ)さんはいないんだ」
汐(うしお)「…あっきー」
朋也(ともや)「オッサンもいないんだ」
汐(うしお)「………」
泣(な)き出(だ)しそうだった。
そりゃそうだろう…。
楽(たの)しみにしていた旅行(りょこう)なのに、唐突(とうとつ)にふたりが居(い)なくなってしまったのだから。
こいつが泣(な)いても俺(おれ)は悪(わる)くない。
あのふたりがこんな冗談(じょうだん)をやるから悪(わる)い。
朋也(ともや)「な、おまえは、どうしたい」
汐(うしお)「………」
朋也(ともや)「言(い)ってみろよ。じゃないと、わかんないだろ」
汐(うしお)「………」
汐(うしお)「…りょこう、いきたい」
朋也(ともや)「残念(ざんねん)ながら、そりゃ無理(むり)だ」
朋也(ともや)「わかるだろ?
オッサンと早苗(さなえ)さん、いないんだから」
汐(うしお)「…なつやすみだから、いきたい」
朋也(ともや)「だろうけどさ、オッサンと早苗(さなえ)さんがいないと嫌(いや)だろ?」
汐(うしお)「…うん」
朋也(ともや)「だろ。だから、行(い)けない」
汐(うしお)「…いきたい」
朋也(ともや)「無理(むり)だって言(い)ってるだろ、馬鹿(ばか)っ」
汐(うしお)「………」
汐(うしお)「…いきたい」
朋也(ともや)「何度(なんど)も言(い)わせるな」
とりあえず、荷物(にもつ)を肩(かた)から下(お)ろし、床(ゆか)に座(すわ)り込(こ)んだ。
そしてタバコを取(と)りだして、口(くち)にくわえ、火(ひ)をつける。
朋也(ともや)「ふぅー」
机(つくえ)の上(うえ)に載(の)っていた灰皿(はいざら)を引(ひ)き寄(よ)せる。
その先(さき)、ドアの入(い)り口(ぐち)では、まだ汐(うしお)がこっちを見(み)て立(た)っていた。
朋也(ともや)「はぁ…」
暗澹(あんたん)たる気分(きぶん)になる。
…最悪(さいあく)の夏期休暇(かききゅうか)だった。
こんなことなら、仕事(しごと)をしておけばよかった。
でも、もしそうしていたら、汐(うしお)がこの家(いえ)でひとりきりになってしまっていたのか…。
朋也(ともや)「はぁ…」
もう一度(いちど)ため息(いき)をつく。
オッサンと早苗(さなえ)さんはどこに行(い)ってしまったのだろうか。
書(か)き置(お)きにもう一度(いちど)目(め)を通(とお)してみる。
しばらく出(で)かける、とある。
どれぐらいだろうか。四日間(よっかかん)、いないつもりだろうか。
いや、様子(ようす)見(み)に夜(よる)には戻(もど)ってくるだろう。
それまでの辛抱(しんぼう)だと思(おも)った。
裏返(うらがえ)すと、そこには四日間(よっかかん)のスケジュールがびっしりと書(か)き込(こ)んである。
下(した)にはセロハンテープで電車(でんしゃ)のキップが二枚(にまい)とめてある。
特急券(とっきゅうけん)だった。
顔(かお)を上(あ)げる。
汐(うしお)「………」
汐(うしお)はまだドアの向(む)こうに隠(かく)れて、こっちを見(み)ている。
朋也(ともや)「おまえ、ひとりで行(い)ってくるか?
キップ、ついてるぞ」
そう訊(き)いても、何(なに)も答(こた)えない。
朋也(ともや)「なぁ、なんか言(い)ってみろよ」
汐(うしお)「………」
朋也(ともや)「おまえ、隠(かく)れてるつもりか。丸見(まるみ)えだぞ」
汐(うしお)「………」
朋也(ともや)「ちっ…」
朋也(ともや)「なんなんだよ、この光景(こうけい)はよ…」
朋也(ともや)「くそ…」
押(お)しても駄目(だめ)なら、引(ひ)いてみな…か。
朋也(ともや)「おーい、汐(うしお)」
優(やさ)しく呼(よ)びかけてみる。
朋也(ともや)「こっちこいよ、んなとこ立(た)ってないで」
汐(うしお)「………」
朋也(ともや)「ほら、こっちこい」
汐(うしお)「………」
とてとてと歩(ある)いてきて、少(すこ)し距離(きょり)を置(お)いた正面(しょうめん)に立(た)った。
朋也(ともや)「座(すわ)れよ」
汐(うしお)「………」
座(すわ)らなかった。
朋也(ともや)「まぁ、いいよ…」
朋也(ともや)「えっとだな…」
朋也(ともや)「たぶん、オッサンも早苗(さなえ)さんも夜(よる)になったら帰(かえ)ってくるよ」
汐(うしお)「………」
朋也(ともや)「今日(きょう)は無駄(むだ)になっちまうけど、明日(あした)からは旅行(りょこう)に行(い)けるよ」
朋也(ともや)「だから、今日(きょう)は大人(おとな)しく待(ま)ってるんだ。いいな」
汐(うしお)「…りょこう」
朋也(ともや)「明日(あした)からな」
汐(うしお)「…ほんとに…?」
朋也(ともや)「ああ。大丈夫(だいじょうぶ)。あのふたりも、そこまで冗談(じょうだん)きつくないよ」
朋也(ともや)「だから、今日(きょう)はひとりで遊(あそ)んでな」
汐(うしお)「うん」
安心(あんしん)したように、頷(うなず)いた。
朋也(ともや)「よし、いけ」
とてとてと歩(ある)いていった。
朋也(ともや)「ふぅ…」
煙(けむり)を吐(つ)いて、しばらく時間(じかん)をやり過(す)ごした。
それでもさすがに退屈(たいくつ)になってきて、家(いえ)の中(なか)を歩(ある)き回(まわ)ってみる。
もしかしたら、あのふたりはどこかに隠(かく)れていて、俺(おれ)の様子(ようす)をじっと見張(みは)っているのかもしれない。
そんなことを考(かんが)えながら。
ひとつのドアに目(め)がいく。
胸(むね)が痛(いた)む。
何(なに)も思(おも)い出(だ)したくなかった。
俺(おれ)は顔(かお)を伏(ふ)せて、その前(まえ)を通(とお)り過(す)ぎた。
暇(ひま)だから、パンでも焼(や)いて、勝手(かって)に開店(かいてん)してやるか…。
しかし、パンの焼(や)き方(かた)までは教(おそ)わってないから、無理(むり)だった。
どすん、と何(なに)かが落(お)ちる音(おと)が後(うし)ろでした。
振(ふ)り返(かえ)ると、土間(どま)に汐(うしお)が倒(たお)れていた。
朋也(ともや)「馬鹿(ばか)、なにやってんだ、おまえっ」
駆(か)けつけて、起(お)こし上(あ)げる。
朋也(ともや)「大丈夫(だいじょうぶ)か?
そこから落(お)ちたんだろ?」
汐(うしお)「…ぐす」
汐(うしお)は黙(だま)ったままで、泣(な)くのを我慢(がまん)しているようだった。
その姿(すがた)を見(み)て、俺(おれ)は動揺(どうよう)する。
朋也(ともや)(なんて似(に)てるんだろう、あいつに…)
下(した)を向(む)いて涙(なみだ)を堪(た)えてる姿(すがた)がそっくりだった。
朋也(ともや)「怪我(けが)はないのか?」
一通(ひととお)り見(み)てみたところ、出血(しゅっけつ)もないし、大丈夫(だいじょうぶ)なようだ。
朋也(ともや)「もう、いけ。こんな危(あぶ)ないところで遊(あそ)ぶんじゃないぞ」
汐(うしお)「………」
そう言(い)っても、その場(ば)から動(うご)かなかった。
床(ゆか)に目(め)を落(お)とす。
そこにおもちゃが落(お)ちていた。
プラスチックでできたカメのおもちゃだ。
よく見(み)ると、いくつか部品(ぶひん)が破片(はへん)となって、散(ち)らばっていた。
拾(ひろ)い上(あ)げてみる。
滑車(かっしゃ)がついていて、それで首(くび)が前後(ぜんご)に動(うご)く仕組(しく)みだったようだ。
でも今(いま)は、それがなかった。
朋也(ともや)「なるほど…おまえ、これで遊(あそ)んでて、落(お)ちたんだな」
朋也(ともや)「それで、自分(じぶん)の体重(たいじゅう)で壊(こわ)しちまったのか」
朋也(ともや)「うーん…接着剤(せっちゃくざい)があれば直(なお)るかな…」
家(いえ)の中(なか)から勝手(かって)に接着剤(せっちゃくざい)を探(さが)しだす。
直(なお)してる間(あいだ)、汐(うしお)はずっと俺(おれ)の隣(となり)にいた。
朋也(ともや)「ほら、できた」
朋也(ともや)「でも、まだ滑車(かっしゃ)は填(は)めるなよ。滑車(かっしゃ)ごと接着剤(せっちゃくざい)でくっついてしまうからな」
朋也(ともや)「これは、ここに置(お)いておいて、別(べつ)のことして遊(あそ)べ」
テーブルの上(うえ)に載(の)せておいた。
汐(うしお)はわかっているのか、いないのか、ぱたぱたと走(はし)っていった。
朋也(ともや)「しかし、男(おとこ)の子(こ)みたいな奴(やつ)だな…」
オッサンの影響(えいきょう)だろうか。
朋也(ともや)「ふぅ…」
俺(おれ)はやることもなく、横(よこ)になる。
夜(よる)までこのまま眠(ねむ)ってしまおう…。
………。
……。
…。
人(ひと)の気配(けはい)がして、薄目(うすめ)を開(あ)ける。
目(め)の前(まえ)に、小(ちい)さな影(かげ)。
朋也(ともや)「ん…なんだよ…」
渋々(しぶしぶ)、体(からだ)を起(お)こす。
汐(うしお)「…うごかない…」
その手(て)には、カメ。
朋也(ともや)「あ、おまえ、それっ」
取(と)り上(あ)げてみると、思(おも)いっきり滑車(かっしゃ)が填(は)められていた。
朋也(ともや)「接着剤(せっちゃくざい)が乾(かわ)くまで、填(は)めるな、って言(い)ったのによ…」
朋也(ともや)「ぐあー、くっついて、動(うご)かなくなってるじゃないか…」
朋也(ともや)「な、アホな子(こ)だろ、おまえ」
朋也(ともや)「この接着剤(せっちゃくざい)、強力(きょうりょく)なんだぞ…」
取(と)り外(はず)そうと努力(どりょく)してみたが、部品(ぶひん)が小(ちい)さくて力(ちから)が入(はい)らない。
朋也(ともや)「駄目(だめ)だな…」
朋也(ともや)「もう、これで我慢(がまん)しとけ。な」
小(ちい)さな手(て)にカメを戻(もど)す。
汐(うしお)「………」
また悲(かな)しそうに肩(かた)を震(ふる)わせる。
でも泣(な)かなかった。
それで納得(なっとく)したのか、よくわからなかったが、ぱたぱたと走(はし)っていった。
朋也(ともや)「ありがとう、のひとつもなしかよ…」
もう一度(いちど)体(からだ)を倒(たお)す。
………。
……。
…。
くいくい…
今度(こんど)は揺(ゆ)すられて目(め)が覚(さ)める。
汐(うしお)が俺(おれ)の服(ふく)の裾(すそ)を引(ひ)っ張(ぱ)っていた。
朋也(ともや)「どうした…こんどはなんだよ…」
汐(うしお)「…さなえさん」
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さんがどうした。戻(もど)ってきたか」
ううん、と首(くび)を振(ふ)る。
朋也(ともや)「なんだ、期待(きたい)を持(も)たせるな」
汐(うしお)「…さなえさん」
もう一度(いちど)繰(く)り返(かえ)した。
つまり、こいつが俺(おれ)に訊(き)いているのだ。
朋也(ともや)「居(い)ないんなら、まだ帰(かえ)ってきてないんだよ。それぐらいわかれよ」
汐(うしお)「…まだまだ?」
朋也(ともや)「俺(おれ)が知(し)りたいぐらいだ」
朋也(ともや)「早(はや)くても夕方(ゆうがた)だろうよ。祈(いの)って待(ま)ってろ」
汐(うしお)「…おなかすいた」
そう言(い)われて、気(き)づいた。昼飯(ひるめし)をお互(たが)い食(く)っていないことに。
朋也(ともや)「ちっ…」
朋也(ともや)「パンぐらい余(あま)ってるんじゃないのか」
俺(おれ)は渋々(しぶしぶ)起(お)き上(あ)がり、台所(だいどころ)を漁(あさ)った。
すぐに食(た)べられるようなものはなかった。
なら、作(つく)るか、買(か)いにいくか、のどっちかだ。
朋也(ともや)(わざわざ作(つく)ることもないか…)
朋也(ともや)「よし、買(か)いにいってやるから、食(く)いたいもの言(い)えよ」
汐(うしお)「………」
じっと俺(おれ)を見上(みあ)げて答(こた)えようとしない。
朋也(ともや)「どうした。食(く)いたいもの言(い)えよ」
汐(うしお)「………」
朋也(ともや)「なんだ、なんでもいいんだな」
汐(うしお)「………」
朋也(ともや)「よし、わかった。俺(おれ)が勝手(かって)に選(えら)んでくるからな」
朋也(ともや)「ったく、ガキが好(す)きなものなんて、知(し)らないからな、俺(おれ)はっ」
朋也(ともや)「豚足(とんそく)買(か)ってきても、食(く)えよ」
土間(どま)に下(くだ)りて、靴(くつ)を履(は)く。
振(ふ)り返(かえ)ると、汐(うしお)がこっちを見(み)ていた。
朋也(ともや)「大人(おとな)しく待(ま)ってろよ。すぐ戻(もど)ってくるから」
暑(あつ)い。
じりじりと肌(はだ)が焦(こ)げるようだった。
朋也(ともや)(海(うみ)とか川(かわ)とか…なんでもいいから水(みず)の中(なか)に飛(と)び込(こ)みたい気分(きぶん)だな…)
歩(ある)き出(だ)す。
しばらく行(い)った先(さき)の角(かど)に小(ちい)さなスーパーがあったはずだ。
それも、昔(むかし)の話(はなし)なので、今(いま)もやっているかはわからない。
あるいは、逆(ぎゃく)に大型(おおがた)スーパーになってるかもしれない。
朋也(ともや)(でも、この辺(あた)りだけは、変(か)わらないでほしいよな…)
主婦(しゅふ)「あら、お久(ひさ)しぶり」
自転車(じてんしゃ)に乗(の)った主婦(しゅふ)が足(あし)をついて、こっちを見(み)ていた。
見(み)ると、古河(ふるかわ)パンで働(はたら)いていた頃(ころ)の常連客(じょうれんきゃく)だった。
朋也(ともや)「ちっす」
主婦(しゅふ)「今日(きょう)は、散歩(さんぽ)ですか」
朋也(ともや)「ええ…まあ」
主婦(しゅふ)「帽子(ぼうし)あったほうがいいですよ」
朋也(ともや)「すぐ、そこですから」
主婦(しゅふ)「でも、すごくしんどそう」
朋也(ともや)「え?
これぐらい平気(へいき)っすけど」
主婦(しゅふ)「あなたじゃなくて、後(うし)ろの子(こ)」
朋也(ともや)「はい?」
振(ふ)り返(かえ)る。足元(あしもと)に、汐(うしお)がいた。
暑(あつ)さのせいだろう、ふらふらと左右(さゆう)に揺(ゆ)れていた。
今(いま)にも倒(たお)れそうだ。
朋也(ともや)「ぐあ…」
朋也(ともや)「なに、ついてきてんだよ、おまえはっ」
俺(おれ)のリアクションに、主婦(しゅふ)は空気(くうき)を読(よ)んだのだろう…
主婦(しゅふ)「それでは、また」
そう言(い)って、自転車(じてんしゃ)を走(はし)らせていった。
朋也(ともや)「なぁ、おまえ」
俺(おれ)は汐(うしお)を見下(みお)ろした格好(かっこう)で訊(き)く。
朋也(ともや)「大人(おとな)しく待(ま)ってろ、って言(い)っただろ?」
汐(うしお)「………」
朋也(ともや)「こんな暑(あつ)い中(なか)、帽子(ぼうし)もなしによ…」
汐(うしお)「………」
朋也(ともや)「な、どうした。言(い)ってみろ」
汐(うしお)「…えっと」
汐(うしお)「…えらびたい」
朋也(ともや)「何(なに)をだ…」
汐(うしお)「…たべるもの」
朋也(ともや)「なら、最初(さいしょ)から言(い)えよっ」
汐(うしお)「………」
また、ふらふらと左右(さゆう)に揺(ゆ)れ始(はじ)めた。
朋也(ともや)「くそっ…戻(もど)るぞ」
家(いえ)に引(ひ)き返(かえ)した。
朋也(ともや)「お仕置(しお)きに、昼飯(ひるめし)は否応(いやおう)なしに焼(や)きめしだ」
慣(な)れた手(て)つきで焼(や)きめしを作(つく)る。
朋也(ともや)「ほら、食(く)え」
どん、と焼(や)きめしを盛(さか)った皿(さら)を汐(うしお)の前(まえ)に置(お)いてやる。
小(ちい)さな汐(うしお)には不(ふ)釣(つ)り合(あ)いで、滑稽(こっけい)だった。
汐(うしお)「………」
スプーンですくって、ぱくっと口(くち)に入(い)れた。
汐(うしお)「んー…」
汐(うしお)「…にがい」
朋也(ともや)「にがい?」
俺(おれ)も食(た)べてみるが、いつも通(どお)りの焼(や)きめしの味(あじ)だった。
汐(うしお)「このてんてん…くろいのきらい」
朋也(ともや)「黒(くろ)い点々(てんてん)?」
朋也(ともや)「ああ、コショウか」
朋也(ともや)「悪(わる)いがそれがなかったら、焼(や)きめしじゃないんだ。我慢(がまん)して食(く)え」
汐(うしお)「…いらない」
朋也(ともや)「こらこら、好(す)き嫌(きら)いすんなって、早苗(さなえ)さんに言(い)われてるだろ?」
汐(うしお)「…さなえさんのごはんがたべたい」
朋也(ともや)「そうかよ…」
朋也(ともや)「なら、食(く)うな」
汐(うしお)「………」
時間(じかん)が経(た)っても、冷(さ)めた焼(や)きめしの前(まえ)に汐(うしお)は座(すわ)っていた。
朋也(ともや)「なんだよ、ったく…コショウを抜(ぬ)けばいいのか」
仕方(しかた)なく、そう訊(き)く。
汐(うしお)「…うん」
朋也(ともや)「でも、コショウ抜(ぬ)いたらまずいぞ」
朋也(ともや)「焼(や)きめしじゃないほうがいいんじゃないのか?」
汐(うしお)「…ごはん」
朋也(ともや)「ごはん?
ごはんだけ食(く)うのか」
朋也(ともや)「そりゃ、俺(おれ)はラクだけどさ…」
茶碗(ちゃわん)を探(さが)して、それにご飯(はん)だけを盛(さか)った。
その後(あと)に気(き)づいたのだが、食器棚(しょっきだな)をよく見(み)ると、汐用(うしおよう)の小(ちい)さな食器(しょっき)が別(べつ)の場所(ばしょ)に並(なら)べてあった。
今(いま)盛(さか)ったのは、オッサン用(よう)のだろうか。でかかった。
今更(いまさら)取(と)り替(か)えるわけにもいかず、それを汐(うしお)の目(め)の前(まえ)に置(お)く。
朋也(ともや)「ほら、ご飯(はん)」
入(い)れ替(か)わりに焼(や)きめしの皿(さら)を下(さ)げた。
そうすると、汐(うしお)の前(まえ)には、白米(はくまい)が盛(さか)られた茶碗(ちゃわん)ひとつとなる。
朋也(ともや)「なんか、俺(おれ)がイジめてるようだぞ…」
朋也(ともや)「仕方(しかた)ない。これで、焼(や)きめしセット、ご飯(はん)付(つ)きだ」
焼(や)きめしを戻(もど)してみる。
汐(うしお)「…えい」
押(お)し戻(もど)される。
朋也(ともや)「なぁに、すんだよ」
汐(うしお)「…これだけ」
朋也(ともや)「だから、俺(おれ)がイジめてるように見(み)えるからだなぁ…」
汐(うしお)はたっ、と立(た)ち上(あ)がり、台所(だいどころ)に入(はい)っていった。
そして、戻(もど)ってきた汐(うしお)の手(て)には、小(ちい)さな袋(ふくろ)が握(にぎ)りしめられていた。
朋也(ともや)「なんだよ、それ」
嬉々(きき)として、その袋(ふくろ)を破(やぶ)って、中身(なかみ)をご飯(はん)の上(うえ)にふりかけた。
朋也(ともや)「ふりかけか…」
それを美味(おい)しそうに食(た)べ始(はじ)めた。
朋也(ともや)「ガキは焼(や)きめしより、ふりかけご飯(はん)のほうがおいしいのか」
朋也(ともや)「そりゃラクでいいな」
朋也(ともや)「でも、夕飯(ゆうはん)はさすがにそれだけじゃあなぁ…」
朋也(ともや)「夕飯(ゆうはん)までに早苗(さなえ)さん、帰(かえ)ってくるといいけどな…」
カチャカチャと高(たか)い音(おと)を立(た)てながら、一生懸命(いっしょうけんめい)に汐(うしお)はふりかけご飯(はん)を食(た)べ続(つづ)けた。
夜(よ)の9時(じ)を過(す)ぎても、ふたりは帰(かえ)ってこなかった。
どこまで冗談(じょうだん)は続(つづ)くのだろうか。
昼(ひる)を食(た)べたのが遅(おそ)かったとはいえ、さすがに、ふたりとも空腹(くうふく)になってきた。
俺(おれ)は我慢(がまん)してもよかったが、汐(うしお)はそうはいくまい。
結局(けっきょく)、ふたりでスーパーに行(い)き、お互(たが)い好(す)きな出来合(できあい)いの弁当(べんとう)を買(か)って、それを夕飯(ゆうはん)にした。
…11時(じ)。
これだけ遅(おそ)いと、もう今夜(こんや)は帰(かえ)ってくる気(き)がないのだろう。
もし、俺(おれ)が汐(うしお)をここに残(のこ)して家(いえ)に戻(もど)っていたら、大変(たいへん)なことになっていた。
冗談(じょうだん)では済(す)まない。
すぐ隣(となり)で遊(あそ)んでいた汐(うしお)は、いつの間(ま)にか眠(ねむ)りこけていた。
このまま朝(あさ)まで眠(ねむ)ってくれるだろうか。
だと、俺(おれ)もゆっくり寝(ね)られそうだが…。
とりあえず、洗面所(せんめんじょ)にあったバスタオルを持(も)ってきて、かけてやる。
電気(でんき)を消(け)し、俺(おれ)も横(よこ)になった。
なんておかしな一日(いちにち)だったのだろう…。
目覚(めざ)めた時(とき)には、オッサンと早苗(さなえ)さんが帰(かえ)ってきていることを願(ねが)って、俺(おれ)も眠(ねむ)りについた。
翌朝(よくあさ)。
俺(おれ)は店(みせ)のシャッターを開(あ)けて、朝日(あさひ)を仰(おっしゃ)いだ。
まだこの時間(じかん)は涼(すず)しい。
うーん、とひとつ伸(の)びをし遠(とお)くを見渡(みわた)す。
今(いま)まさに、オッサンと早苗(さなえ)さんがこちらに向(む)かって歩(ある)いてくるところではないか。
そう期待(きたい)して、待(ま)ち続(つづ)けた。
人(ひと)の気配(けはい)がして、隣(となり)を見下(みお)ろすと、いつの間(ま)に起(お)き出(だ)してきたのか、汐(うしお)がいた。
こいつも早(はや)く帰(かえ)ってきてほしいと、願(ねが)っているのだろう。
ふたりで、早苗(さなえ)さんたちを待(ま)ち続(つづ)けた。
親(おや)を待(ま)つ幼(おさな)い兄妹(あにいもうと)のようで、なんとも情(なさ)けないふたりだった。
汐(うしお)「…おしっこ」
朋也(ともや)「ああ、行(い)ってこい」
汐(うしお)「…うん」
ぱたぱたと駆(か)けていった。
そして、やり終(お)えて戻(もど)ってきた。
汐(うしお)「…ひとりでできた」
朋也(ともや)「あたりまえだ」
汐(うしお)「………」
朝(あさ)ご飯(はん)を食(た)べてからも、ふたり、そうして立(た)ち尽(つ)くしていた。
目(め)の前(まえ)を親子連(おやこづ)れの家族(かぞく)が通(とお)り過(す)ぎていく。
大(おお)きな鞄(かばん)を持(も)っていた。
田舎(いなか)に帰(かえ)るのだろうか。それとも、旅行(りょこう)だろうか。
汐(うしお)「………」
汐(うしお)の顔(かお)を見(み)る。
楽(たの)しそうに笑(わら)う子供(こども)の横顔(よこがお)を目(め)で追(お)っていた。
可哀想(かわいそう)なぐらい、寂(さび)しそうな顔(かお)で。
汐(うしお)「…ね」
朋也(ともや)「あん?」
汐(うしお)「…おおきいほう」
朋也(ともや)「ああ、行(い)ってこい」
汐(うしお)「…うん」
ぱたぱたと駆(か)けていった。
そして、やり終(お)えて戻(もど)ってきた。
汐(うしお)「…ひとりでできた」
朋也(ともや)「いちいち自慢(じまん)するな」
朋也(ともや)「んなもん、俺(おれ)だってできるぞ」
汐(うしお)「………」
俺(おれ)はポケットに手(て)を入(い)れる。
そこには早苗(さなえ)さんの書(か)き置(お)きが乱暴(らんぼう)に突(つ)っ込(こ)まれていた。
それを取(と)りだし、裏面(りめん)に目(め)を通(とお)す。
朋也(ともや)「なぁ…」
汐(うしお)「…うん」
朋也(ともや)「いくか…」
朋也(ともや)「ふたりで…旅行(りょこう)」
汐(うしお)「………」
汐(うしお)「…うん」
朋也(ともや)「いいのか、俺(おれ)なんかで」
汐(うしお)「…うん」
朋也(ともや)「オッサンも早苗(さなえ)さんもいないんだぞ」
汐(うしお)「…だって…」
汐(うしお)「…こないもん」
朋也(ともや)「そうだな。来(こ)ないもんな」
汐(うしお)「…うん」
朋也(ともや)「じゃ、行(い)くか、ふたりで」
汐(うしお)「…うんっ」
少(すこ)しだけ笑(わら)った。
オッサンや早苗(さなえ)さんがいなかったから、十分(じゅうぶん)に満足(まんぞく)というわけでもなかったのだろう。
それでも、行(い)かないよりはマシなのだ。
朋也(ともや)「用意(ようい)するぞ」
すでに用意(ようい)してあったリュックを下(さ)げて、汐(うしお)は戻(もど)ってきた。
早苗(さなえ)さんのことだから、リュックの中身(なかみ)は万全(ばんぜん)なのだろう。
俺(おれ)も、バッグを肩(かた)に掛(か)ける。
朋也(ともや)「戸締(とじ)まりは大丈夫(だいじょうぶ)かな…」
朋也(ともや)「おまえ、裏(うら)の窓(まど)、開(ひら)いてなかったか、見(み)てきてくれよ」
汐(うしお)「…うん」
ふたりで家(いえ)の戸締(とじ)まりを確(たし)かめる。
汐(うしお)「…しまってた」
朋也(ともや)「ようし、OKだな」
朋也(ともや)「じゃ、しゅっぱーつ」
汐(うしお)「…おー」
手(て)をあげて、汐(うしお)がかけ声(こえ)をあげた。
それを合図(あいず)に、歩(ある)き始(はじ)めた。
俺(おれ)は書(か)き置(お)きの裏(うら)に目(め)を落(お)としながら、歩(ある)く。
朋也(ともや)(この行(い)き先(さき)って、何(なに)があるところだよ…)
朋也(ともや)(明太子(めんたいこ)か?)
朋也(ともや)(そりゃ、違(ちが)ったかな…)
朋也(ともや)「おい、汐(うしお)」
呼(よ)びかけると、ぱたぱたと駆(か)けて、横(よこ)に並(なら)ぶ。
朋也(ともや)「おまえは何(なに)をしたい」
汐(うしお)「………」
朋也(ともや)「うまいものを食(く)いたいのか、泳(およ)ぎたいのか、きれいな風景(ふうけい)を見(み)たいのか、たくさんの外人(がいじん)に会(あ)いたいのか」
汐(うしお)「…ぜんぶ」
朋也(ともや)「マジかよ…贅沢(ぜいたく)な奴(やつ)だな、おまえ」
朋也(ともや)「それにたくさんの外人(がいじん)に会(あ)うのは無理(むり)だぞ。外国(がいこく)に行(い)くわけじゃないんだからな」
朋也(ともや)「どれかひとつにしとけ」
汐(うしお)「…うーん…」
汐(うしお)「…ぜんぶ」
朋也(ともや)「だから、全部(ぜんぶ)は無理(むり)だっての…」
朋也(ともや)「そうだな…」
朋也(ともや)「よし、明太子(めんたいこ)にしとけ」
汐(うしお)「…めんたいこ?」
朋也(ともや)「ああ。この旅(たび)の目的(もくてき)は、明太子(めんたいこ)を食(く)う。それだけだ。いいな」
朋也(ともや)「ご飯(はん)に載(の)せて食(く)うと最高(さいこう)にうまいんだぞ」
朋也(ともや)「あんなもの食(く)ったら、ふりかけなんか二度(にど)と食(く)えなくなるぞ、おまえ」
ふりかけよりおいしい、というイメージだけは伝(つた)わったらしい。
汐(うしお)「…たのしみ」
そう言(い)って、汐(うしお)は口元(くちもと)を綻(ほころ)ばせた。
早苗(さなえ)さんの用意(ようい)してくれた特急券(とっきゅうけん)は当日限(とうじつかぎ)りなので、使(つか)えなくなっていた。
だから、急行(きゅうこう)を乗(の)り継(つ)いでいくことにした。
特急券(とっきゅうけん)を買(か)うほどの持(も)ち合(あ)わせがなかったからだ。
列車(れっしゃ)の中(なか)は、俺(おれ)たちと同(おな)じような家族連(かぞくづ)れで賑(にぎ)わっていた。
でも、どの家族(かぞく)にも、父(ちち)と母(はは)がいた。
もし、渚(なぎさ)が生(い)きていたら…
俺(おれ)の隣(となり)には、渚(なぎさ)が座(すわ)っていたのだろう…。
そうしたら…俺(おれ)は、こいつのちゃんとした親(おや)だっただろうか。
夏休(なつやす)みの思(おも)い出(で)の中(なか)に、最初(さいしょ)からいられただろうか。
………。
この旅(たび)は、あまりに俺(おれ)に辛(つら)い旅(たび)だった…。
………。
……。
…。
どれぐらい電車(でんしゃ)に揺(ゆ)られていただろうか。
太股(ふともも)を叩(たた)かれる感覚(かんかく)に目(め)を覚(さ)ます。
汐(うしお)「…あそんで」
汐(うしお)が俺(おれ)を見上(みあ)げていた。
朋也(ともや)「え?
ああ…」
朋也(ともや)(寝(ね)てたのか…)
寝汗(ねあせ)をかいていた。襟元(えりもと)を掴(つか)んで、前後(ぜんご)に動(うご)かす。
汐(うしお)「…あそんで」
汐(うしお)がそう繰(く)り返(かえ)した。
外(そと)の景色(けしき)も見飽(みあ)きたのだろうか。
朋也(ともや)「遊(あそ)ぶって、なにして」
汐(うしお)「…うーん」
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さんとは、普段(ふだん)、何(なに)して遊(あそ)んでるんだ」
汐(うしお)「さなえさんはいっしょに本(ほん)よむ」
朋也(ともや)「本(ほん)か。でも、本(ほん)、ないな」
朋也(ともや)「オッサンとは?」
汐(うしお)「やきゅう」
朋也(ともや)「野球(やきゅう)!?」
汐(うしお)「みてみて」
汐(うしお)が席(せき)を飛(と)び降(お)りて、通路(つうろ)に立(た)つ。
そして、両手(りょうて)を合(あ)わせてバットを持(も)つ格好(かっこう)を作(つく)る。
独特(どくとく)な構(かま)えだった。
汐(うしお)「こまだ」
朋也(ともや)「物(もの)まねかよっ!」
汐(うしお)「おもしろい?」
朋也(ともや)「面白(おもしろ)くねぇよ…」
汐(うしお)「…ざんねん」
戻(もど)ってきて、椅子(いす)によじ登(のぼ)る。
朋也(ともや)「あの人(ひと)は女(おんな)の子(こ)になんて隠(かく)し芸(げい)を教(おし)えてるんだよ…」
朋也(ともや)「しかも、誰(だれ)を笑(わら)わせるためのギャグだよ…」
朋也(ともや)「対象(たいしょう)がわかんねぇよ…」
汐(うしお)「…なにかして」
朋也(ともや)「俺(おれ)か?」
朋也(ともや)「物(もの)まねなんてできねぇよ」
汐(うしお)「おもしろいこと」
朋也(ともや)「面白(おもしろ)いことか…」
朋也(ともや)「俺(おれ)、パチンコとか、ひとりで遊(あそ)ぶことしかしないからな…」
朋也(ともや)「他人(たにん)が面白(おもしろ)いことなんて、よくわからねぇよ」
朋也(ともや)「ましてや、子供相手(こどもあいて)じゃな」
汐(うしお)「…なにもないの?」
朋也(ともや)「ああ、何(なに)もない」
汐(うしお)「………」
しばらくじっと俺(おれ)を見(み)つめていたが、黙(だま)っていると、諦(あきら)めて窓(まど)の外(そと)に顔(かお)を向(む)けた。
そうすると、他(ほか)の子供(こども)たちのはしゃぐ声(こえ)が一層(いっそう)大(おお)きくなった気(き)がした。
もう一度(いちど)眠(ねむ)ろうと目(め)を閉(と)じても、気(き)になって仕方(しかた)がない。
すぐ後(うし)ろで甲高(かんだか)い絶叫(ぜっきょう)のような奇声(きせい)があがった。
朋也(ともや)「うるせぇっ!」
堪(た)えきれず、俺(おれ)は立(た)ち上(あ)がっていた。
朋也(ともや)「ちったぁ周(まわ)りのことを考(かんが)えろっ!」
母親(ははおや)「は、はい…すみません…」
子供(こども)を庇(かば)う母親(ははおや)の姿(すがた)。
朋也(ともや)「くそ…」
座(すわ)り直(なお)す。
隣(となり)が空席(くうせき)だった。
朋也(ともや)「汐(うしお)っ?」
立(た)って、辺(あた)りを見回(みまわ)す。
朋也(ともや)「汐(うしお)ーっ」
さっきの母親(ははおや)が訝(いぶか)しげに俺(おれ)を見(み)ていた。
朋也(ともや)「くそ、あいつ…どこいったんだ…」
女性(じょせい)「女(おんな)の子(こ)なら、今(いま)、後(うし)ろに走(はし)っていきましたよ」
別(べつ)の女性(じょせい)がそう教(おし)えてくれた。
朋也(ともや)「そうすか…ありがとうございます」
そこには車掌(しゃしょう)がいた。
車掌(しゃしょう)「あ、お父(とう)さんですか」
立(た)ち止(ど)まっていると、向(む)こうからそう訊(き)いてきた。
朋也(ともや)「はぁ」
車掌(しゃしょう)「今(いま)、お子(こ)さんがトイレに」
朋也(ともや)「そうですか」
車掌(しゃしょう)「ドアを開(あ)けられずにいましたので」
朋也(ともや)「それはご迷惑(めいわく)おかけしました」
車掌(しゃしょう)「後(あと)、乗車券(じょうしゃけん)のほう、拝見(はいけん)させていただきます」
朋也(ともや)「ああ、はい」
車掌(しゃしょう)が立(た)ち去(さ)って、さらに十分(じゅうぶん)ぐらいは経(た)っただろうか。
ようやく汐(うしお)が出(で)てきた。
朋也(ともや)「おまえ、トイレ行(い)くなら、ひとこと言(い)っていけよ」
汐(うしお)「…うん」
朋也(ともや)「わかってんのか?」
汐(うしお)「…うん」
朋也(ともや)「おまえ、目(め)、赤(あか)くない?」
汐(うしお)「…ううん」
朋也(ともや)「そうか?」
朋也(ともや)「なら、いいけど。戻(もど)るぞ」
汐(うしお)「…うん」
ふたり並(なら)んで、座(すわ)り直(なお)す。
俺(おれ)の一喝(いっかつ)が利(き)いたのか、車内(しゃない)は静(しず)かになっていた。
けど、眠気(ねむけ)は今(いま)の騒(さわ)ぎで吹(ふ)き飛(と)んでしまっていた。
隣(となり)を見(み)る。
汐(うしお)はじっと、窓(まど)の外(そと)を見(み)ていた。
その小(ちい)さな背中(せなか)を見(み)ていると…俺(おれ)まで悲(かな)しい気分(きぶん)になってくる。
朋也(ともや)「俺(おれ)さ…」
朋也(ともや)「おまえ、泣(な)かしたよな、今(いま)…」
汐(うしお)「………」
朋也(ともや)「汐(うしお)、おまえに訊(き)いてるんだぞ」
汐(うしお)「…え?」
こっちを向(む)いた。
朋也(ともや)「今(いま)、俺(おれ)、大声(おおごえ)出(だ)して怒(おこ)ったから、おまえ泣(な)いたんだよな」
汐(うしお)「…ううん」
朋也(ともや)「どうして、嘘(うそ)つく?
おまえ、目(め)腫(は)らしてるじゃないか」
汐(うしお)「…ないちゃダメって…」
朋也(ともや)「誰(だれ)が?」
汐(うしお)「さなえさん」
朋也(ともや)「マジか?
意外(いがい)に厳(きび)しいな、あの人(ひと)…」
汐(うしお)「…でも…」
汐(うしお)「…ないていいところがあるって…」
朋也(ともや)「泣(な)いていいところ?」
汐(うしお)「…うん」
朋也(ともや)「どこだよ、そりゃ」
汐(うしお)「…おトイレ」
だから、こいつはひとりで入(はい)ったこともない電車(でんしゃ)のトイレなんかに駆(か)け込(こ)んだんだ。
朋也(ともや)「そりゃ、トイレだったら誰(だれ)にも気(き)づかれずに泣(な)けるけどさ…」
朋也(ともや)「おまえ、いつもトイレで泣(な)いてんの?」
汐(うしお)「うん…」
朋也(ともや)「でも、外(そと)だったらどうすんだよ…」
汐(うしお)「…がまん」
朋也(ともや)「マジで言(い)ってんのか?」
汐(うしお)「…うん」
朋也(ともや)「でも、それって…なんか、寂(さび)しくねぇ?」
早苗(さなえ)さんの教育方針(きょういくほうしん)がよくわからなかった。
朋也(ともや)「俺(おれ)は泣(な)きたい時(とき)は、泣(な)いていいと思(おも)うけどな」
朋也(ともや)「泣(な)きたくても我慢(がまん)しなくちゃいけないことなんて、この先(さき)、大(おお)きくなってから、たくさんあるからな」
朋也(ともや)「だから、今(いま)のうちに泣(な)いておいたほうがいいぞ」
汐(うしお)「…うん」
朋也(ともや)「本当(ほんとう)にわかってんのか?」
汐(うしお)「…うん」
俺(おれ)のことが恐(こわ)くなってしまったのだろうか。さっきから返事(へんじ)しかしなくなっていた。
朋也(ともや)(はぁ…)
財布(さいふ)を取(と)りだして、中身(なかみ)を見(み)てみた。
少(すこ)しの余裕(よゆう)ならありそうだった。
朋也(ともや)「汐(うしお)、次(つぎ)、降(お)りるぞ」
汐(うしお)「ついたの?」
朋也(ともや)「寄(よ)り道(みち)だ」
見知(みし)らぬ駅(えき)で下車(げしゃ)し、隣接(りんせつ)していたデパートに入(はい)る。
そこで俺(おれ)は、汐(うしお)におもちゃひとつを買(か)い与(あた)えた。
朋也(ともや)「それで、もう退屈(たいくつ)しないだろ」
汐(うしお)「…うん」
嬉(うれ)しそうに頬(ほお)を緩(ゆる)ましていた。
朋也(ともや)「けど、本当(ほんとう)にそんなのでよかったのか?」
汐(うしお)の持(も)つおもちゃは、手(て)のひらサイズの寸胴(ずんどう)なロボット。
時代錯誤(じだいさくご)なデザインが珍妙(ちんみょう)で面白(おもしろ)かったから、思(おも)わず俺(おれ)が薦(すす)めてしまったのだ。
汐(うしお)は悩(なや)むことなく、それに決(き)めてしまった。
だが冷静(れいせい)になってみると、女(おんな)の子(こ)はもとより、男(おとこ)の子(こ)だって欲(ほ)しくならないような代物(しろもの)だ。
朋也(ともや)(マニア向(む)けの復刻(ふっこく)モデルだったのかな…)
汐(うしお)「…ちょっとかわいい」
朋也(ともや)「ちょっとって、おまえな…すごく可愛(かわい)いものを買(か)えばよかったんだよ」
汐(うしお)「…ううん、これがいちばん」
朋也(ともや)「マジかよ…」
朋也(ともや)「おまえ、趣味(しゅみ)おかしいからな。自覚(じかく)しておけよ」
汐(うしお)「……?」
朋也(ともや)「じゃ、俺(おれ)、寝(ね)るから。おまえ、それで遊(あそ)んでろ」
汐(うしお)「うん」
ようやく落(お)ち着(つ)ける。
そう思(おも)って、目(め)を閉(と)じた。
………。
……。
ミュィーーーン…
……。
ギィィィ!
ガァァァ!
ギィィィ!
ガァァァ!
キシャーーーーッ!
朋也(ともや)「キシャーーッ、て俺(おれ)が言(い)いたくなるわっ!」
汐(うしお)「…え?」
朋也(ともや)「なんつー、騒音(そうおん)を立(た)てるおもちゃなんだよ、それはっ」
汐(うしお)「………」
汐(うしお)「…ぐ」
泣(な)く寸前(すんぜん)の顔(かお)。
汐(うしお)「…がまん」
朋也(ともや)「我慢(がまん)せずに泣(な)けって」
ぷるぷると首(くび)を振(ふ)った。
朋也(ともや)「トイレ行(い)ってこいよ」
汐(うしお)「…ううん、がまん」
朋也(ともや)「あ、そ」
朋也(ともや)「あと、さっきの音(おと)、禁止(きんし)な」
朋也(ともや)「俺(おれ)だけじゃなく、周(まわ)りにも迷惑(めいわく)かかるだろ」
汐(うしお)「…うん」
朋也(ともや)「聞(き)き分(わ)けだけはいいな、おまえ」
俺(おれ)はもう一度(いちど)、寝(ね)に入(はい)る。
………。
……。
…。
そこからは、夢(ゆめ)うつつだった。
ずっと、汐(うしお)の姿(すがた)が見(み)えていた。
視界(しかい)の中(なか)で汐(うしお)は、じっと流(なが)れる風景(ふうけい)を見(み)ていた。
手(て)に持(も)ったロボットを窓(まど)に張(は)りつけて。
楽(たの)しい夏休(なつやす)みになっているだろうか…。
友達(ともだち)に自慢(じまん)できるぐらいの…。
こんな恐(こわ)いだけの父親(ちちおや)とふたりで、楽(たの)しいはずないか…。
初(はじ)めてのふたりきりの旅行(りょこう)なのに…。
寂(さび)しそうな汐(うしお)、ひとりだけの風景(ふうけい)しかなかった。
………。
……。
…。
初日(しょにち)の目的地(もくてきち)に着(つ)いたのは、もう日(ひ)も暮(く)れ始(はじ)めた頃(ころ)だった。
早苗(さなえ)さんの書(か)き置(お)きを見(み)て、駅名(えきめい)を確認(かくにん)。
朋也(ともや)「よし、合(あ)ってるな」
朋也(ともや)「汐(うしお)、いくぞ」
改札(かいさつ)を抜(ぬ)けて、見知(みし)らぬ土地(とち)に降(お)り立(た)つ。
早苗(さなえ)さんの書(か)き置(お)きに目(め)を落(お)とす。
…バスで動物園(どうぶつえん)へ移動(いどう)。その後(しり)、本日(ほんじつ)の宿(やど)へ。
朋也(ともや)「動物園(どうぶつえん)か…」
朋也(ともや)「ここで、バスを待(ま)つぞ、汐(うしお)」
バス停(てい)の前(まえ)にふたり並(なら)んで立(た)つ。
………。
しばらく待(ま)つが、なかなかバスはやってこない。
時間表(じかんひょう)を確認(かくにん)する。
朋也(ともや)(ぐあ…一時間(いちじかん)に一本(いっぽん)かよ…)
朋也(ともや)(タクシー使(つか)ったら、帰(かえ)りの電車賃(でんしゃちん)がなくなるし…)
朋也(ともや)(つーか、時間(じかん)はあるのか…?)
早苗(さなえ)さんのメモには、宿(やど)へは6時(じ)に入(はい)ることになっている。
予約(よやく)は入(い)れてくれてあったから、連絡(れんらく)すれば、チェックインを遅(おく)らせることもできるだろう。
…って、待(ま)て。
朋也(ともや)(一日(いちにち)遅(おく)れで行動(こうどう)してるんじゃなかったか、俺(おれ)たち…)
朋也(ともや)「汐(うしお)…」
汐(うしお)「…うん?」
朋也(ともや)「動物園(どうぶつえん)は、また今度(こんど)な」
汐(うしお)「…え?」
朋也(ともや)「時間(じかん)がないんだ。宿(やど)も取(と)らないといけないし」
汐(うしお)「………」
泣(な)きそうな顔(がお)になる。
朋也(ともや)「いろいろ事情(じじょう)があるんだよ。少(すこ)しは察(さっ)しろ」
朋也(ともや)「それに動物園(どうぶつえん)なんて、どこでもあるだろ。わざわざこんな田舎(いなか)まで来(こ)なくたって」
汐(うしお)「…ここ、さわれるって」
朋也(ともや)「動物(どうぶつ)にか?」
汐(うしお)「…うん。さわりたかった」
朋也(ともや)「そっか…」
朋也(ともや)「それか予定(よてい)変(か)えて、明日(あした)、動物園(どうぶつえん)いくか?」
朋也(ともや)「この、最終目的地(さいしゅうもくてきち)のなんとか岬(みさき)には行(い)けなくなるけど」
汐(うしお)「…そっちもいきたい」
朋也(ともや)「おまえ、どっちかにしろよ」
朋也(ともや)「こっちは、ええと…お花畑(はなばたけ)か」
朋也(ともや)「動物園(どうぶつえん)のほうがいいんじゃないのか?」
汐(うしお)「おはな…」
朋也(ともや)「花(はな)のほうがいいのか。そこは、女(おんな)の子(こ)らしいんだな」
朋也(ともや)「よし、じゃ、今日(きょう)はもう宿(やど)に移動(いどう)しよう」
朋也(ともや)「同(おな)じとこで、部屋(へや)空(す)いてるかな…」
朋也(ともや)「いくぞ」
汐(うしお)「…うん」
駅(えき)に戻(もど)り、宿泊(しゅくはく)予定(よてい)だった宿(やど)に電話(でんわ)をしてみる。
………。
朋也(ともや)「汐(うしお)、急(いそ)ぐぞっ」
汐(うしお)「…え」
朋也(ともや)「満室(まんしつ)だったんだよっ、自分(じぶん)たちの足(あし)で、探(さが)さないといけなくなった」
汐(うしお)「………」
意味(いみ)がわからないのだろう。不安(ふあん)そうな顔(かお)でついてくる。
朋也(ともや)「荷物(にもつ)持(も)ってやるから、もう少(すこ)し急(いそ)げ」
どれだけ急(せ)かしても、ふらふらとおぼつかない足取(あしど)りで歩(ある)くだけだった。
こいつにとっては、それで走(はし)っているつもりなのだろう。
普通(ふつう)に歩(ある)いているほうが速(はや)かった。
朋也(ともや)(どこも全部(ぜんぶ)、満室(まんしつ)になったらどうすんだよ…)
責任(せきにん)をなすりつけることもできない。
子供(こども)を連(つ)れての行動(こうどう)とは、こんなにも不自由(ふじゆう)なものだったのか…。
9時(じ)を回(まわ)る頃(ころ)、ようやく小(ちい)さな民宿(みんしゅく)の一室(いっしつ)に落(お)ち着(つ)くことができた。
でも持(も)ち合(あ)わせがなかったので、早起(はやお)きをして銀行(ぎんこう)を探(さが)さねばならなかった。
朋也(ともや)(大変(たいへん)すぎる…)
その日(ひ)は、風呂(ふろ)からあがると、何(なに)もする気(き)が起(お)きず、そのまま寝入(ねい)ってしまった。
最後(さいご)に見(み)たのは、テレビに見入(みい)る汐(うしお)の横顔(よこがお)だった。
翌朝(よくあさ)。
宿(やど)を後(あと)にした俺(おれ)たちは来(き)た道(みち)を戻(もど)り、駅(えき)へと向(む)かう。
そこからはまた、退屈(たいくつ)な電車(でんしゃ)での移動(いどう)が続(つづ)く。
寝(ね)る以外(いがい)することもなかったが、夕(ゆう)べは眠(ねむ)りすぎたためか、なかなか眠気(ねむけ)が訪(おとず)れない。
それに相変(あいか)わらず車内(しゃない)は、子連(こづ)れの乗客(じょうきゃく)が多(おお)く、騒(さわ)がしかった。
また怒鳴(どな)るわけにもいかず…
俺(おれ)は眠(ねむ)ることを諦(あきら)め、隣(となり)を見(み)た。
汐(うしお)と目(め)が合(あ)った。
途端(とたん)、さっ、と逸(そ)らされた。
朋也(ともや)「なんだよ」
汐(うしお)「…ううん」
朋也(ともや)「顔(かお)になんか、ついてるか」
汐(うしお)「…ついてない」
朋也(ともや)「じゃ、隠(かく)れるようにして、人(ひと)の顔(かお)を見(み)るな」
朋也(ともや)「相手(あいて)が男(おとこ)の子(こ)だったら、勘違(かんちが)いされるぞ」
朋也(ともや)「って、まだ、そんな歳(とし)じゃないか」
汐(うしお)「…うん」
本当(ほんとう)にわかってるのか、頷(うなず)いて、窓(まど)の外(そと)に目(め)を向(む)けた。
朋也(ともや)(ビール、買(か)ってくりゃよかったな…)
急行(きゅうこう)では、車内販売(しゃないはんばい)もなかった。
朋也(ともや)(禁煙(きんえん)だし、最悪(さいあく)だな…)
朋也(ともや)「………」
ばっ、と不意打(ふいう)ちのように顔(かお)を横(よこ)に向(む)ける。
すると、案(あん)の定(じょう)、こっちを見(み)ていた汐(うしお)が驚(おどろ)いて、あたふたしていた。
朋也(ともや)「なんだよ、退屈(たいくつ)なのか」
汐(うしお)「…ううんっ」
汐(うしお)「…これあるから」
手(て)に持(も)っていたロボットの腕(うで)をくるくると回転(かいてん)させた。
朋也(ともや)「音(おと)鳴(な)らしてもいいぞ。周(まわ)りもうるさいからな」
汐(うしお)「…いい」
朋也(ともや)「いいのか?」
汐(うしお)「…うん」
朋也(ともや)「おまえ、子供(こども)のくせに控(ひか)えめだよな」
朋也(ともや)「それとも、なんだ、まだ俺(おれ)のこと恐(こわ)がってるのか?」
汐(うしお)「………」
朋也(ともや)「もう、怒鳴(どな)ったりしないって」
朋也(ともや)「だから、言(い)いたいこと言(い)ってみろ」
汐(うしお)「………」
朋也(ともや)「ほら」
汐(うしお)「じゃぁ…」
汐(うしお)がようやく口(くち)を開(ひら)いた。
汐(うしお)「ママのこと、おしえて」
………。
一瞬(いっしゅん)、辺(あた)りが静寂(せいじゃく)に包(つつ)まれた気(き)がした。
俺(おれ)は顔(かお)を伏(ふ)せる。
………。
すでに騒(さわ)がしいガキ共(ども)の声(こえ)は戻(もど)ってきている。
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さんに訊(き)けよ」
床(ゆか)を見(み)つめたまま、答(こた)えた。
汐(うしお)「きいても、おしえてくれないから…」
…それは、父親(ちちおや)の義務(ぎむ)だとでも言(い)うのだろうか。
そんなの酷(ひど)すぎる。
俺(おれ)だって、誰(だれ)かに任(まか)せたい…。
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さんにさ…」
朋也(ともや)「俺(おれ)も教(おし)えてくれなかったって言(い)ってくれよ」
朋也(ともや)「それでな…」
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さんの口(くち)から教(おし)えてやってほしいって…」
朋也(ともや)「そう言(い)ってたって…」
朋也(ともや)「伝(つた)えてくれよ」
汐(うしお)「…そうしたら、おしえてくれるの?」
朋也(ともや)「俺(おれ)じゃない。早苗(さなえ)さんがな」
汐(うしお)「………」
しばらく、俺(おれ)の顔(かお)を見(み)つめていた。
朋也(ともや)「なんだよ、言(い)ってみろよ」
汐(うしお)「…ううん」
汐(うしお)「…わかった」
それからは会話(かいわ)もなく、汐(うしお)とふたり、揺(ゆ)られ続(つづ)けた。
昼(ひる)を過(す)ぎると、途中下車(とちゅうげしゃ)し
て、立(た)ち食(く)いそばを食(た)べた。
用(よう)を足(た)し、また車中(しゃちゅう)に舞(ま)い戻(もど)る。
電車(でんしゃ)は何度(なんど)も停車(ていしゃ)し、最終目的地(さいしゅうもくてきち)へと向(む)かっていた。
………。
……。
…。
結局(けっきょく)、俺(おれ)は寝入(ねい)ってしまっていた。
目覚(めざ)めると、まず汐(うしお)の姿(すがた)を確認(かくにん)する。
窓(まど)に張(は)りついて、外(そと)を眺(なが)めていた。
それから車内(しゃない)を見回(みまわ)した。
いつの間(ま)にか、自分(じぶん)たち以外(いがい)の乗客(じょうきゃく)はいなくなってしまっていた。
寝汗(ねあせ)が冷房(れいぼう)によって、冷(さ)まされていく。
寒(さむ)いほどだった。
車内(しゃない)アナウンスが告(つ)げていた。
…次(つぎ)が終点(しゅうてん)だと。
見知(みし)らぬ土地(とち)に降(お)り立(た)つ。
もわっとした熱気(ねっき)がふたりを包(つつ)み込(こ)む。
朋也(ともや)「あちぃ…」
見渡(みわた)す限(かぎ)りの自然(しぜん)。
舗装(ほそう)もされていない道(みち)がどこまでも続(つづ)いていた。
朋也(ともや)「ええと…」
早苗(さなえ)さんのメモを見(み)てみる。
朋也(ともや)「花畑(はなばたけ)まで徒歩(とほ)15分(ふん)だってよ」
朋也(ともや)「この暑(あつ)さでそんなに歩(ある)いたら、倒(たお)れるぞ…」
朋也(ともや)「ちゃんと帽子(ぼうし)かぶってるな?」
汐(うしお)「…うん」
朋也(ともや)「もっと深(ふか)く」
押(お)しつけてやる。
汐(うしお)「う、うん…」
朋也(ともや)「とっとと、いくぞ」
歩(ある)き出(だ)す。
遠目(とおめ)からでも、目的地(もくてきち)はわかった。
広(ひろ)がる緑(みどり)の中(なか)、一面(いちめん)に、色(いろ)とりどりの模様(もよう)を編(あ)み込(こ)んだような場所(ばしょ)が見渡(みわた)せた。
朋也(ともや)「お花畑(はなばたけ)って…すげぇ広(ひろ)さだな…」
汐(うしお)「うーん…」
差(さ)す陽(よう)に目(め)を細(ほそ)めて、必死(ひっし)で汐(うしお)が遠(とお)くを見(み)ようとしていた。
朋也(ともや)「そんなに焦(あせ)るなって。今(いま)からそこに向(む)かってるんだからさ」
汐(うしお)「ここからも、みてみたい」
確(たし)かに、すぐそばと、ここからでは、見(み)た目(め)も違(ちが)うだろう。
朋也(ともや)「見(み)たいか?」
汐(うしお)「うん、みたい」
朋也(ともや)「じゃ、見(み)せてやるよ」
俺(おれ)は汐(うしお)の背後(はいご)に回(まわ)り込(こ)み、しゃがみ込(こ)んだ。
朋也(ともや)「いくぞ」
汐(うしお)「…え?」
朋也(ともや)「股(また)開(ひら)けって」
朋也(ともや)「肩車(かたぐるま)ってやつだよ」
汐(うしお)「…こう?」
朋也(ともや)「そうそう」
汐(うしお)の体(からだ)を持(も)ち上(あ)げる。
むちゃくちゃ軽(かる)い。
朋也(ともや)「どうだ」
汐(うしお)「うー…すごい」
朋也(ともや)「しばらく、このまま歩(ある)いてやるよ」
汐(うしお)「うん」
花畑(はなばたけ)は、いつの日(ひ)かかいだことのあるような懐(なつ)かしい匂(にお)いに包(つつ)まれていた。
汐(うしお)「わーい」
リュックを背負(せお)ったままの汐(うしお)が、その中(なか)を駆(か)け回(まわ)る。
朋也(ともや)「おまえ、やっぱ、男(おとこ)の子(こ)だろ」
汐(うしお)「こんなの、みたことない」
足(あし)を止(と)めては花(はな)に見入(みい)る。
朋也(ともや)「そりゃ、よかったな。十分(じゅうぶん)堪能(かんのう)してくれ」
近(ちか)くに木陰(こかげ)を見(み)つけると、俺(おれ)はその下(した)に入(はい)る。
朋也(ともや)「暑(あつ)くなったら、こっちきて、休(やす)めよ」
それだけを言(い)って、腰(こし)を下(お)ろした。
あんなに楽(たの)しそうにしている汐(うしお)を見(み)たことがなかった。
退屈(たいくつ)しかしないようなひどい旅(たび)だったけど、ここにきて、ようやくいい思(おも)い出(で)を作(つく)ってやることができた。
俺(おれ)も胸(むね)を撫(な)で下(お)ろす。
朋也(ともや)「ふぅ…」
花(はな)の匂(にお)いを帯(お)びた風(かぜ)が通(とお)り抜(ぬ)けていく。
心地(ここち)よかった。
もう一度(いちど)、早苗(さなえ)さんのメモに目(め)を落(お)とす。
ゴールはすぐそこだった。
見(み)たことも聞(き)いたこともない岬(みさき)。
日(ひ)が暮(く)れるまでにそこに向(む)かえばいい。
ここでゆっくりしていこう。
俺(おれ)も、花(はな)の中(なか)で跳(は)ね回(まわ)る汐(うしお)を、しばらく見(み)ていたかった。
一時間(いちじかん)ぐらいして、ようやく汐(うしお)が戻(もど)ってくる。
汐(うしお)「あつい…」
朋也(ともや)「おまえ、足元(あしもと)、ふらふらな」
汐(うしお)「…うん」
朋也(ともや)「そうなる前(まえ)に戻(もど)ってこいって言(い)ったんだよ」
朋也(ともや)「ほら、座(すわ)って待(ま)ってろ」
朋也(ともや)「ジュース買(か)ってきてやるから」
汐(うしお)が腰(こし)を下(お)ろすのと入(い)れ代(か)わりに立(た)ち上(あ)がる。
花畑(はなばたけ)の入(い)り口(ぐち)にぽつんと設置(せっち)してあった販売機(はんばいき)で、お茶(ちゃ)とジュースを買(か)って、汐(うしお)の元(もと)に戻(もど)る。
その汐(うしお)は立(た)ち上(あ)がって、花畑(はなばたけ)に戻(もど)っていこうとしていた。
朋也(ともや)「おい、いい加減(かげん)にしろっ」
眩(まぶ)しく細(ほそ)めた目(め)をこちらに向(む)けた。
汐(うしお)「だって…」
汐(うしお)「なくしたから…」
朋也(ともや)「なくした?
何(なに)を」
汐(うしお)「…ろぼっと」
朋也(ともや)「落(お)としたのか」
汐(うしお)「…うん」
朋也(ともや)「わかった、ほら、これ飲(の)んで休(やす)んでおけ」
寄(よ)っていって、その手(て)にジュースを握(にぎ)らせる。
朋也(ともや)「代(か)わりに俺(おれ)が探(さが)してくるから」
汐(うしお)「…ほんと?」
朋也(ともや)「ああ、本当(ほんとう)だ。見(み)つかるかどうかはしらないけどな」
花畑(はなばたけ)を振(ふ)り返(かえ)る。
ぞっとするほどの広(ひろ)さだった。
しかも、この暑(あつ)さ…。
汐(うしお)「………」
汐(うしお)が潤(うる)ませた瞳(ひとみ)をじっと俺(おれ)に向(む)けていた。
朋也(ともや)(行(い)けばいいんだろ…)
俺(おれ)は汐(うしお)を木陰(こかげ)に残(のこ)して、花畑(はなばたけ)へ踏(ふ)み込(こ)んだ。
通(とお)れる道(みち)をすべて歩(ある)いて回(まわ)った。
けど、見(み)つからなかった。
体(からだ)の小(ちい)さい汐(うしお)のことだ。狭(せま)い隙間(すきま)でも入(はい)っていって、花(はな)を観察(かんさつ)できただろう。
そんな場所(ばしょ)で落(お)としたなら、大人(おとな)の俺(おれ)に見(み)つけられるはずがなかった。
諦(あきら)めて木陰(こかげ)まで戻(もど)ってくる。
朋也(ともや)「悪(わる)いな…見(み)つからなかった」
汐(うしお)は何(なに)も言(い)わずにいた。
朋也(ともや)「ジュース飲(の)み終(お)わったか?
お茶(ちゃ)も欲(ほ)しかったら、飲(の)めよ」
ううん、と首(くび)を振(ふ)った。
朋也(ともや)「あのロボット、同(おな)じの、家(いえ)の近(ちか)くでも売(う)ってるよ、きっと」
朋也(ともや)「探(さが)して、早苗(さなえ)さんかオッサンに買(か)ってもらえ」
朋也(ともや)「な」
汐(うしお)「………」
汐(うしお)「…さがしてくる」
朋也(ともや)「残念(ざんねん)だけど、もう時間(じかん)がないんだ」
朋也(ともや)「日(ひ)が暮(く)れ始(はじ)める前(まえ)に動(うご)きたいんだよ」
汐(うしお)「…ちょっとだけ」
言(い)って、俺(おれ)の返事(へんじ)も聞(き)かずに、花畑(はなばたけ)に向(む)かって駆(か)けていった。
朋也(ともや)「汐(うしお)…見(み)つかったか」
汐(うしお)「…ううん」
朋也(ともや)「もう、諦(あきら)めよう。これだけ探(さが)してないんだったらさ」
汐(うしお)「…ぜったいにみつける」
朋也(ともや)「おまえって、子供(こども)のくせに頑固(がんこ)な奴(やつ)だな…」
結局(けっきょく)日(ひ)は暮(く)れてしまった。
朋也(ともや)「おまえ、いい加減(かげん)にしろよ…」
朋也(ともや)「どうでもいいじゃないか、あんなものさ…」
汐(うしお)「…ううん」
………。
朋也(ともや)「置(お)いていくぞーっ」
汐(うしお)「…うん」
朋也(ともや)「おい、マジで置(お)いていくぞ」
汐(うしお)「………」
立(た)ち上(あ)がって、こっちを見(み)た。
朋也(ともや)「………」
俺(おれ)は黙(だま)っていた。
しかし、結局(けっきょく)、もう一度(いちど)しゃがみ込(こ)んで、探(さが)し始(はじ)めた。
朋也(ともや)「ったく…」
俺(おれ)は胸(むね)のポケットからタバコを取(と)りだして、口(くち)にくわえ、火(ひ)をつける。
朋也(ともや)「ふぅーっ…」
そろそろ宿(やど)を探(さが)し始(はじ)めなければならなかった。
それさえしてしまえば、後(あと)は一晩(ひとばん)休(やす)んで、帰(かえ)るだけだった。
俺(おれ)の四連休(よんれんきゅう)はそれで終(お)わり。明後日(あさって)からは、仕事(しごと)だった。
また早苗(さなえ)さんに汐(うしお)を預(あず)けて、何(なに)も考(かんが)えずにひとり体(からだ)を動(うご)かす日々(ひび)が始(はじ)まる。
朋也(ともや)「………」
………。
結局(けっきょく)…
この旅(たび)はなんだったのだろう…。
こんな遠(とお)い場所(ばしょ)まで来(き)て…
花(はな)を見(み)て、喜(よろこ)んだのも束(つか)の間(ま)…
買(か)ってあげたおもちゃを、なくして…
必死(ひっし)になって、探(さが)しても、見(み)つからなくて…
それで、寂(さび)しい思(おも)いのまま帰(かえ)るだけ。
なんにも得(え)たものがない。
時間(じかん)の無駄(むだ)だった。
失(うしな)ったものばかりだった。
………。
風向(ふうこう)きが変(か)わった。
潮(しお)の匂(にお)いがした。
それは岬(みさき)から吹(ふ)いてきたものだろうか。
時間(じかん)はもう少(すこ)しだけある。
朋也(ともや)「汐(うしお)」
俺(おれ)は呼(よ)びかけた。
心配(しんぱい)そうな顔(かお)で汐(うしお)はこっちを見(み)た。
朋也(ともや)「後(あと)、30分(ぷん)だけ待(ま)ってやる」
朋也(ともや)「それまでに見(み)つけろ」
汐(うしお)「…うん」
俺(おれ)は汐(うしお)をその場(ば)に残(のこ)して、歩(ある)き出(だ)した。
旅(たび)のゴールに向(む)けて。
潮(しお)の匂(にお)いを辿(たど)って、斜面(しゃめん)を登(のぼ)っていく。
朋也(ともや)(ゴールって、一体(いったい)何(なに)があるんだろう…)
朋也(ともや)(記念(きねん)スタンプとかかな…)
視界(しかい)が開(あ)けた。
真(ま)っ直(す)ぐ先(さき)には、海(うみ)が見(み)えた。
そして、その海(うみ)を背(せ)に、ひとりの女性(じょせい)が立(た)っていた。
女性(じょせい)「お待(ま)ちしてましたよ」
女性(じょせい)「岡崎朋也(おかざきともや)さん、ですね」
朋也(ともや)「はぁ、そうですが…」
女性(じょせい)「古河(ふるかわ)さんという女性(じょせい)の方(かた)から、連絡(れんらく)をいただきまして」
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さん、ですか?」
女性(じょせい)「そうです」
朋也(ともや)「でも、その…」
朋也(ともや)「俺(おれ)は、早苗(さなえ)さんにここまで来(く)るように指示(しじ)されただけで…」
朋也(ともや)「失礼(しつれい)ですが、あなたが誰(だれ)なのかも知(し)らないんです」
女性(じょせい)「わたしですか」
朋也(ともや)「ええ…」
女性(じょせい)「わたしは、岡崎史乃(おかざきしの)といいます」
朋也(ともや)「…え?」
史乃(しの)「あなたの父親(ちちおや)の母(はは)です」
風(かぜ)が吹(ふ)いて、額(ひたい)に張(は)りついた髪(かみ)をなびかせた。
…早苗(さなえ)さん。
一体(いったい)あなたは、どんな経験(けいけん)を俺(おれ)にさせたいんですか。
史乃(しの)「大(おお)きくなりましたね」
朋也(ともや)「会(あ)ったこと…あったんですか」
史乃(しの)「ええ。でも、あなたが覚(おぼ)えてないのは無理(むり)もないですよ」
史乃(しの)「まだまだ小(ちい)さかったですから」
朋也(ともや)「そうですか…」
史乃(しの)「あの馬鹿(ばか)は、まだ罪滅(つみほろ)ぼしの途中(とちゅう)ですか」
朋也(ともや)「いや…たぶん、もう実家(じっか)に戻(もど)ってると思(おも)います…」
史乃(しの)「大変(たいへん)な思(おも)いをしたでしょう」
朋也(ともや)「いえ…お互(たが)い、距離(きょり)を置(お)いてましたから…」
史乃(しの)「わかりますよ。直幸(なおゆき)のことですから」
直幸(なおゆき)…父(ちち)の名(な)だった。
俺(おれ)は海(うみ)に目(め)を向(む)けた。
史乃(しの)「昔(むかし)はあんな馬鹿(ばか)な子(こ)ではなかったんですよ」
祖母(そぼ)は話(はなし)を続(つづ)けた。
史乃(しの)「若(わか)い結婚(けっこん)でした。ふたりとも学生(がくせい)だったから、誰(だれ)もが反対(はんたい)しましたよ…」
史乃(しの)「でも、直幸(なおゆき)は高校(こうこう)を中退(ちゅうたい)してまで、働(はたら)いて…敦子(あつこ)さんのために頑張(がんば)った」
史乃(しの)「小(ちい)さなアパートで、二人暮(ふたりぐ)らしを始(はじ)めて…」
史乃(しの)「収入(しゅうにゅう)も少(すく)ない中(なか)、やりくりして…」
史乃(しの)「何(なに)を好(この)んで、苦労(くろう)してるのだろうってね…」
史乃(しの)「周(まわ)りは不思議(ふしぎ)そうに見(み)てましたよ」
史乃(しの)「でもね、直幸(なおゆき)はそれで幸(しあわ)せだったんでしょう」
史乃(しの)「ずっと一緒(いっしょ)に暮(く)らしてきたわたしなんかでも見(み)たことのないような笑顔(えがお)でいましたから…」
史乃(しの)「自分(じぶん)の力(ちから)だけで、愛(あい)する人(ひと)を守(まも)って、生(い)きていく…」
史乃(しの)「それだけであの子(こ)は幸(しあわ)せだったんですよ」
史乃(しの)「やがて、敦子(あつこ)さんはお腹(なか)に直幸(なおゆき)との子(こ)を宿(やど)しました」
史乃(しの)「ささやかな祝福(しゅくふく)の中(なか)で、朋也(ともや)さん、あなたは生(う)まれてきたんですよ」
史乃(しの)「ふたりきりだった生活(せいかつ)は、家族(かぞく)の生活(せいかつ)になりました」
史乃(しの)「直幸(なおゆき)は今(いま)まで以上(いじょう)に頑張(がんば)って、働(はたら)きました」
史乃(しの)「ずっと、笑(わら)いながら」
史乃(しの)「でも…」
史乃(しの)「その幸(しあわ)せは長(なが)く続(つづ)きませんでした」
史乃(しの)「敦子(あつこ)さんが事故(じこ)に遭(あ)って…」
史乃(しの)「…そのまま他界(たかい)してしまいました」
史乃(しの)「直幸(なおゆき)にとって、それは…立(た)ち直(なお)れないほど悲(かな)しい出来事(できごと)でした」
史乃(しの)「あの子(こ)は、家族(かぞく)の幸(しあわ)せを守(まも)って、生(い)きてきたからです」
史乃(しの)「でも、まだ絶望(ぜつぼう)するわけにはいかなかったのです」
史乃(しの)「朋也(ともや)さん」
史乃(しの)「…まだ幼(おさな)いあなたが残(のこ)されていたからです」
史乃(しの)「こいつだけは、自分(じぶん)の手(て)で育(そだ)て上(あ)げるから、と…」
史乃(しの)「あなたは、その日(ひ)、この場所(ばしょ)から…直幸(なおゆき)と手(て)を繋(つな)いで、歩(ある)いていったのですよ」
史乃(しの)「覚(おぼ)えていますか」
朋也(ともや)「………」
史乃(しの)「そこから始(はじ)まった日々(ひび)が…あの子(こ)の人生(じんせい)の中(なか)で、一番(いちばん)頑張(がんば)った時間(じかん)なのですよ」
朋也(ともや)「………」
史乃(しの)「仕事(しごと)と子育(こそだ)てを両立(りょうりつ)することは、難(むずか)しかったんです」
史乃(しの)「何度(なんど)も仕事(しごと)をクビになって、転(てん)々として…」
史乃(しの)「それでも、あなただけは手放(てばな)さずにいました…」
史乃(しの)「なけなしのお金(かね)で、おもちゃを買(か)い与(あた)え、お菓子(かし)を食(た)べさせて…」
史乃(しの)「自分(じぶん)の運(うん)や、成功(せいこう)する機会(きかい)…すべてを犠牲(ぎせい)にして…」
史乃(しの)「あなたを育(そだ)て上(あ)げたのですよ」
史乃(しの)「時(とき)には厳(きび)しかったでしょう。時(とき)には、乱暴(らんぼう)だったでしょう」
史乃(しの)「でも、すべては…あなたを無事(ぶじ)に育(そだ)て上(あ)げるためだったのですよ」
史乃(しの)「そして、あなたが手(て)のかからない男(おとこ)の子(こ)として育(そだ)ったとき…」
史乃(しの)「あの子(こ)は、すべてを失(うしな)っていました」
史乃(しの)「仕事(しごと)も…」
史乃(しの)「信頼(しんらい)も…」
史乃(しの)「運(うん)も…」
史乃(しの)「友(とも)も…」
史乃(しの)「そこからはもう…」
史乃(しの)「堕落(だらく)していくしかなかったのです」
史乃(しの)「朋也(ともや)さん」
史乃(しの)「直幸(なおゆき)は…駄目(だめ)な父(ちち)だったと思(おも)いますか」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「…いえ…」
泣(な)きそうだった。泣(な)き出(だ)したかった。
朋也(ともや)「俺(おれ)のほうが…」
朋也(ともや)「俺(おれ)のほうがよっぽど…駄目(だめ)な人間(にんげん)です…」
史乃(しの)「………」
そんな思(おも)いであの人(ひと)が俺(おれ)を育(そだ)ててきたなんて知(し)らなかった。
そして…
朋也(ともや)「俺(おれ)は…あの日(ひ)の親父(おやじ)と…同(おな)じ場所(ばしょ)に立(た)ってるんです」
史乃(しの)「………」
朋也(ともや)「まったく同(おな)じなんです…」
朋也(ともや)「なのに…今(いま)の俺(おれ)は…弱(よわ)くて、情(なさ)けない人間(にんげん)です…」
史乃(しの)「いえ…あの子(こ)も、弱(よわ)くて、情(なさ)けない人間(にんげん)でしたよ」
史乃(しの)「我(わ)がままばかりで、乱暴(らんぼう)で…」
史乃(しの)「人間(にんげん)としては、駄目(だめ)な人間(にんげん)です…」
史乃(しの)「でも…」
史乃(しの)「ただ、ひとつだけ…わたしは今(いま)も誇(ほこ)りに思(おも)いたいのです」
史乃(しの)「人間(にんげん)としては、駄目(だめ)だったけど…」
史乃(しの)「父親(ちちおや)としては、立派(りっぱ)だったと」
朋也(ともや)「………」
史乃(しの)「朋也(ともや)さんも…そう思(おも)ってくれますか」
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「…はい」
史乃(しの)「ありがとうございます」
朋也(ともや)「いえ…そんな…」
史乃(しの)「朋也(ともや)さん」
祖母(そぼ)が真(ま)っ直(す)ぐに俺(おれ)を見(み)た。
史乃(しの)「あの子(こ)は、頑張(がんば)りすぎました」
史乃(しの)「そろそろ休(やす)んでも、いい頃(ころ)でしょう…」
史乃(しの)「どうか、伝(つた)えてください」
史乃(しの)「もう帰(かえ)ってこい、と…」
史乃(しの)「わたしはこの場所(ばしょ)で、あの子(こ)を待(ま)ち続(つづ)けます」
史乃(しの)「あの子(こ)と、ここで暮(く)らせることを願(ねが)って」
優(やさ)しい目(め)だった。
母(はは)の目(め)だった。
ずっと、子(こ)を見守(みまも)ってきた人(ひと)の。
朋也(ともや)「………」
朋也(ともや)「…わかりました」
朋也(ともや)「伝(つた)えます」
朋也(ともや)「汐(うしお)ーっ」
呼(よ)ぶと、すぐ正面(しょうめん)で汐(うしお)が顔(かお)をあげた。
朋也(ともや)「見(み)つかったか」
汐(うしお)「…ううん」
立(た)ち上(あ)がって、うなだれる。
汐(うしお)「…みつからなかった…」
朋也(ともや)「そっか…仕方(しかた)ないな」
朋也(ともや)「また、新(あたら)しいの買(か)ってやるからさ…」
汐(うしお)「………」
そう言(い)っても、汐(うしお)は顔(かお)を伏(ふ)せたままでいた。
汐(うしお)「…あれはひとつだけだから」
朋也(ともや)「ん?
ひとつだけって、何(なに)がだよ。たくさん、売(う)ってただろ?」
汐(うしお)「…えらんでくれて…かってくれたものだから」
汐(うしお)「…はじめてパパに」
………。
俺(おれ)は早苗(さなえ)さんの言葉(ことば)を思(おも)い出(だ)していた。
──汐(うしお)は、ずっと寂(さび)しがっているんですよ。
──ずっと、お父(とう)さんがそばにいなくて。
朋也(ともや)「…汐(うしお)」
朋也(ともや)「じゃ、おまえには…大切(たいせつ)なものだったんだな…」
汐(うしお)「………」
汐(うしお)「…うん」
ああ…取(と)り戻(もど)せるんだ。
そう思(おも)った。
朋也(ともや)「汐(うしお)…」
朋也(ともや)「寂(さび)しかったか」
汐(うしお)「…うん」
朋也(ともや)「俺(おれ)なんかと旅行(りょこう)できて…楽(たの)しかったか」
汐(うしお)「…うん」
朋也(ともや)「ずっと…ごめんな」
朋也(ともや)「長(なが)い間(あいだ)…ひとりにして…」
朋也(ともや)「な、汐(うしお)」
朋也(ともや)「これからは、ずっとそばに居(い)ていいかな…」
汐(うしお)「………」
朋也(ともや)「…ずっとさ…駄目(だめ)な父親(ちちおや)だったけどさ…」
朋也(ともや)「これからは、汐(うしお)のために頑張(がんば)るから…」
朋也(ともや)「だから、そばに居(い)ていいかな…」
汐(うしお)「…うん」
朋也(ともや)「本当(ほんとう)か?」
汐(うしお)「…うん。いてほしい」
朋也(ともや)「そうか…」
汐(うしお)「…でも、きょうは…」
汐(うしお)「…たいせつなものなくしたから…」
汐(うしお)「…かなしい」
汐(うしお)「…パパ」
朋也(ともや)「うん?」
汐(うしお)「…もう、がまんしなくていい?」
朋也(ともや)「何(なに)を…?」
汐(うしお)「…なくの」
朋也(ともや)「泣(な)くこと?」
汐(うしお)「…うん」
汐(うしお)「…さなえさんが、ないていいのは…」
汐(うしお)「…おトイレか…パパのむねだって…」
朋也(ともや)「………」
五年間(ごねんかん)…
ずっと、こいつはトイレの中(なか)で、ひとり泣(な)いてきたのだ。
早苗(さなえ)さんは、決(けっ)して、自分(じぶん)の胸(むね)で泣(な)かせたりしなかったのだ。
なんて…
なんて…ひどい父親(ちちおや)だったのだろう、俺(おれ)は…。
朋也(ともや)「ああ…もういい…」
朋也(ともや)「もういいんだよ、汐(うしお)…」
朋也(ともや)「もう、我慢(がまん)なんかしなくていい」
朋也(ともや)「泣(な)きたかったら、パパの胸(むね)で泣(な)けばいい」
朋也(ともや)「ほら」
俺(おれ)はしゃがみ込(こ)んで、腕(うで)を開(ひら)いた。
汐(うしお)「………」
汐(うしお)は少(すこ)し、迷(まよ)った後(あと)…
ぱたぱたと走(はし)ってきて、俺(おれ)の胸(むね)に飛(と)び込(こ)んだ。
そして、泣(な)いた。
わんわん、と。
大(おお)きな声(こえ)で。
朋也(ともや)「汐(うしお)…」
その頭(あたま)を撫(な)でて、そっと抱(だ)きしめた。
俺(おれ)にしか守(まも)れないものが、ここにあった。
朋也(ともや)「お祖母(ばあ)さん…」
朋也(ともや)「暇(ひま)ができたら、また来(き)ます」
史乃(しの)「はい、待(ま)っていますよ」
朋也(ともや)「それでは」
朋也(ともや)「さようなら」
旅(たび)の終着点(しゅうちゃくてん)に待(ま)っていたものは、年老(としお)いたひとりの母(はは)だった。
そして、俺(おれ)はここで、かけがえのないものを得(え)た。
一生(いっしょう)、その思(おも)いを抱(だ)いて、生(い)きる。
こいつと、一緒(いっしょ)に。
朋也(ともや)「なぁ…汐(うしお)」
汐(うしお)「…ん?」
朋也(ともや)「ママの話(はなし)、聞(き)きたいか」
汐(うしお)「…うん」
朋也(ともや)「そっか。よし…じゃ、話(はな)してやる」
朋也(ともや)「こっちこい」
窓(まど)から離(はな)れて、俺(おれ)の腰(こし)にくっついて座(すわ)り直(なお)した。
朋也(ともや)「ママはな、いつだって、泣(な)いてるような奴(やつ)だった」
朋也(ともや)「出会(であ)ったときもさ、自信(じしん)がなくて、弱(よわ)くて…学校(がっこう)の坂(さか)の下(した)でずっと立(た)ち尽(つ)くしてたんだ」
朋也(ともや)「その坂(さか)の下(した)で、なんて言(い)ってたと思(おも)う?」
朋也(ともや)「目(め)つぶって、あんパンっ、だって」
朋也(ともや)「あいつの癖(くせ)だったんだ」
朋也(ともや)「一歩(いっぽ)を踏(ふ)み出(だ)すために、食(た)べたいものを声(こえ)に出(だ)して、それで勇気(ゆうき)を奮(ふる)い立(た)たせる…」
朋也(ともや)「かわいい癖(くせ)だろ…。だって、すごく謙虚(けんきょ)だからさ…」
朋也(ともや)「学校(がっこう)のパンって、競争率(きょうそうりつ)高(たか)くてさ…人気(にんき)のあるパンを手(て)に入(い)れるのは難(むずか)しくてさ…」
朋也(ともや)「だから、いつも売(う)れ残(のこ)るあんパンなんかで、あいつ…」
朋也(ともや)「でも、俺(おれ)と付(つ)き合(あ)い始(はじ)めてからは、そんな癖(くせ)もなくなっていったんだ」
朋也(ともや)「あいつは俺(おれ)を支(ささ)えにしてくれたんだ…」
朋也(ともや)「俺(おれ)も支(ささ)えられた」
朋也(ともや)「ふたりで、支(ささ)え合(あ)って、学校生活(がっこうせいかつ)を送(おく)り始(はじ)めたんだ」
「ふたりで、潰(つぶ)れた演劇部(えんげきぶ)をもう一度(いちど)立(た)て直(なお)そうとした」
「演劇(えんげき)ってわかるか。お芝居(しばい)だな」
「あいつ、演劇(えんげき)やったことも見(み)たこともねぇのに、演劇(えんげき)をしたいって言(い)うんだぜ?」
「おかしいだろ…」
「そのために、どうしてか、バスケの試合(しあい)もした」
「バスケってのは、ボールを使(つか)って点(てん)を取(と)り合(あ)うゲームだな」
「相手(あいて)は毎日(まいにち)バスケをしてるような連中(れんちゅう)だった」
「でも、俺(おれ)たちは勝(か)った」
「ママはこう言(い)ってた」
「短(みじか)い時間(じかん)で、毎日(まいにち)バスケを練習(れんしゅう)してる奴(やつ)らよりも、俺(おれ)たちは絆(きずな)が深(ふか)まったんだって」
「すごく喜(よろこ)んでた…」
「ママはみんなでひとつになって頑張(がんば)ることが大好(だいす)きだったんだ…」
「学校(がっこう)にお祭(まつ)りの日(ひ)がやってきた…」
「演劇部(えんげきぶ)として、ママはひとりで舞台(ぶたい)に立(た)った」
「すごい数(かず)の人前(ひとまえ)でさ、お芝居(しばい)をするんだ」
「あんなに不器用(ぶきよう)で、あがり症(しょう)だった奴(やつ)がだよ」
「その前(まえ)に問題(もんだい)が起(お)きて、あいつ、結局(けっきょく)、舞台(ぶたい)で大泣(おおな)きしたけどさ…」
「でも最後(さいご)まで、ちゃんと芝居(しばい)をした」
「やりきった」
「最後(さいご)にさ…大好(だいす)きなだんご大家族(だいかぞく)の歌(うた)を歌(うた)ってさ…」
「だんご、だんごっ…ていう歌(うた)」
「あいつが大好(だいす)きな歌(うた)なんだ」
「それで、みんな転(ころ)けさせたけどな…」
「あいつは、そうして俺(おれ)やみんなの夢(ゆめ)を同時(どうじ)に叶(かな)えたんだ」
「みんなの…いい思(おも)い出(だ)だ」
「でも、それからは、また、体(からだ)の調子(ちょうし)が悪(わる)くなって…」
「学校(がっこう)を長(なが)く休(やす)むようになった」
「俺(おれ)ひとりが卒業(そつぎょう)して…」
「あいつは、また学校(がっこう)でひとりぼっちになったんだ…」
「でも、あいつは学校(がっこう)を辞(や)めずに、ひとりで頑張(がんば)ることを選(えら)んだ」
「やがて、ふたりで暮(く)らすようになって…」
「一年(いちねん)頑張(がんば)ったら、強(つよ)くなってるから、ってお互(たが)いを励(はげ)ましあって…」
「人(ひと)よりも、時間(じかん)がかかったけど…」
「人(ひと)よりも、たくさんの苦労(くろう)をしたけど…」
「最後(さいご)には、学校(がっこう)も卒業(そつぎょう)した」
「それからは慎(つつ)ましやかに家庭(かてい)を守(まも)るようにふたりで生(い)きた…」
「そんな中(なか)で、ママはおまえを身(み)ごもった…」
「そして…」
朋也(ともや)「母親(ははおや)の強(つよ)さで…おまえを、産(う)んだ」
朋也(ともや)「出会(であ)った時(とき)は、あんなに弱(よわ)かったあいつが…」
朋也(ともや)「最後(さいご)には、強(つよ)く生(い)きたんだ…」
朋也(ともや)「本当(ほんとう)に、強(つよ)く…」
朋也(ともや)「汐(うしお)…」
朋也(ともや)「おまえは、そんな強(つよ)かったママの…子供(こども)なんだぞ」
ああ…今(いま)、俺(おれ)は、痛(いた)いほどに思(おも)い出(だ)している。
俺(おれ)は、あいつが好(す)きだった。
本当(ほんとう)に、好(す)きだった。
誰(だれ)でもない、渚(なぎさ)が好(す)きだった。
あの控(ひか)えめな渚(なぎさ)が好(す)きだった。
たまに意地(いじ)になる渚(なぎさ)が好(す)きだった。
笑顔(えがお)がかわいい渚(なぎさ)が好(す)きだった。
そして…
いつだって俺(おれ)のためにそばに居(い)てくれた渚(なぎさ)が好(す)きだった。
今(いま)はもう、ない校舎(こうしゃ)、あの部室(ぶしつ)で…
渚(なぎさ)は、自分(じぶん)の名前(なまえ)の隣(となり)に、俺(おれ)の名前(なまえ)を書(か)き足(た)す。
渚(なぎさ)「わたしひとりにしたら、ダメです」
渚(なぎさ)「なんでも、一緒(いっしょ)がいいです」
渚(なぎさ)「ずっと、一緒(いっしょ)です…えへへ」
逸(はや)る俺(おれ)の気持(きも)ちを落(お)ち着(つ)けようと、笑(わら)ってくれた。
渚(なぎさ)「落(お)ち着(つ)いてください、朋也(ともや)くん」
渚(なぎさ)「わたしはどこにも行(い)かないです」
渚(なぎさ)「ずっと、朋也(ともや)くんのそばにいます」
闇(やみ)の底(そこ)に突(つ)き落(お)とされた俺(おれ)を…救(すく)い出(だ)してくれた。
渚(なぎさ)「なら、すがってください」
渚(なぎさ)「わたしは朋也(ともや)くんのために今(いま)、ここにいるんです」
渚(なぎさ)「他(ほか)の誰(だれ)のためでもないです」
渚(なぎさ)「朋也(ともや)くんのため、だけにです」
渚(なぎさ)「ずっとそばに居(い)ます」
渚(なぎさ)「どんなときも、いつまでも、そばに居(い)ます」
なのに…
どうして…
今(いま)、おまえは隣(となり)にいないんだよ…
どうして、俺(おれ)をひとりにしていったんだよ…
なんでも一緒(いっしょ)がよかったのに…
ずっと、一緒(いっしょ)でいたかったのに…
いつまでもそばにいてくれるって言(い)ってたのに…
どうして、おまえが先(さき)にいなくなってしまったんだよ…
朋也(ともや)「渚(なぎさ)…」
朋也(ともや)「渚(なぎさ)ぁ…」
ぼろぼろと目(め)から涙(なみだ)が零(こぼ)れていた。
どうにも、止(と)めることができない。
拭(ぬぐ)いても、拭(ぬぐ)いても、流(なが)れ落(お)ちてくる。
朋也(ともや)「はは…ははは…」
笑(わら)いながらも、俺(おれ)は泣(な)き続(つづ)けた。
ずっと、泣(な)いてなかったのに…。
夢中(むちゅう)で生(い)きてきたはずなのに…。
ああ…もう、俺(おれ)は受(う)け入(い)れてしまったんだ…。
あの日(ひ)から、5年(ねん)が過(す)ぎて…
そして、今(いま)、俺(おれ)の隣(となり)には渚(なぎさ)がいない。
その現実(げんじつ)を。
汐(うしお)「パパ…」
朋也(ともや)「ああ…なんだ」
汐(うしお)「…おしっこ」
朋也(ともや)「ああ…場所(ばしょ)はわかるか?」
汐(うしお)「…うん」
朋也(ともや)「ひとりでできるか?」
汐(うしお)「…うん」
よいしょ、と椅子(いす)から飛(と)び降(お)りて、駆(か)けていった。
俺(おれ)はその間(あいだ)に涙(なみだ)を拭(ぬぐ)いた。
しばらくして、汐(うしお)が戻(もど)ってくる。
汐(うしお)「ひとりでできた」
朋也(ともや)「そうか。えらいな、汐(うしお)は」
汐(うしお)「…うんっ」
汐(うしお)は、誇(ほこ)らしげに小(ちい)さな胸(むね)を張(は)った。
早苗(さなえ)「おかえりなさい」
早苗(さなえ)さんは笑顔(えがお)で、そう俺(おれ)を出迎(でむか)えた。
早苗(さなえ)「楽(たの)しかったですか?」
そういうことをのうのうと訊(き)けるところが、この人(ひと)の美点(びてん)なのだろうか…。
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さん」
早苗(さなえ)「はい」
朋也(ともや)「今度(こんど)、デートしてくださいね」
早苗(さなえ)「はい?」
朋也(ともや)「だって、約束(やくそく)が違(ちが)ったじゃないですかっ…いきなり急用(きゅうよう)で行(い)けないだなんて」
朋也(ともや)「俺(おれ)、早苗(さなえ)さんと旅行(りょこう)できるの楽(たの)しみにしてたんですから」
早苗(さなえ)「はいはい、埋(う)め合(あ)わせはいくらでもしますよ」
朋也(ともや)「お願(ねが)いしますよ、ったく…」
朋也(ともや)「あ、それと」
早苗(さなえ)「はい」
朋也(ともや)「今日(きょう)から汐(うしお)は俺(おれ)と一緒(いっしょ)にアパートで暮(く)らしますから」
早苗(さなえ)「はいっ」
俺(おれ)は、勇気(ゆうき)を持(も)って、そこに立(た)っていた。
…渚(なぎさ)の部屋(へや)。
整頓(せいとん)はされているが、あの頃(ころ)のままだった。
あの日(ひ)以来(いらい)、引(ひ)き取(と)ってもらっていた、だんごのぬいぐるみを抱(かか)え上(あ)げる。
そして、その中(なか)に顔(かお)を埋(う)めた。
この匂(にお)いは渚(なぎさ)の匂(にお)いだろうか…。
遠(とお)いあの日(ひ)の、渚(なぎさ)の匂(にお)いだろうか…。
目(め)を閉(と)じれば、帰(かえ)れる気(き)がした。
いつも隣(となり)に渚(なぎさ)が居(い)てくれた頃(ころ)に。
でも、そんな夢(ゆめ)、もう見(み)たくなかった。
汐(うしお)が置(お)いてきぼりになる。
現実(げんじつ)をしっかり見据(みす)えていかなければ…。
だから、目(め)を見開(みひら)いたままで…進(すす)み出(だ)した時間(じかん)を、痛(いた)みのように感(かん)じていた。
声(こえ)「朋也(ともや)さん」
声(こえ)がして、ようやく俺(おれ)は痛(いた)みから解放(かいほう)された。
早苗(さなえ)「どうしましたか」
早苗(さなえ)さんだった。
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さん…」
早苗(さなえ)「それ持(も)っていきますか」
朋也(ともや)「あ、はい…」
朋也(ともや)「いいですか」
早苗(さなえ)「もちろんです。家族(かぞく)ですから、三(みっ)つとも持(も)っていってください」
朋也(ともや)「はい、そうさせてもらいます」
思(おも)い出(で)が、思(おも)い出(で)であるように。
朋也(ともや)「早苗(さなえ)さん…」
早苗(さなえ)「はい」
朋也(ともや)「すみませんでした、長(なが)い間(あいだ)…」
早苗(さなえ)「はい?」
朋也(ともや)「俺(おれ)がふがいないばっかりに…」
朋也(ともや)「汐(うしお)を…ずっと押(お)しつけたままにして…」
朋也(ともや)「俺(おれ)が父親(ちちおや)として、自覚(じかく)を持(も)てるようになったのも…結局(けっきょく)、早苗(さなえ)さんのおかげで…」
朋也(ともや)「本当(ほんとう)に…早苗(さなえ)さんには一生(いっしょう)、頭(あたま)が上(あ)がらないっす」
早苗(さなえ)「いえ…わたしは何(なに)も」
朋也(ともや)「本当(ほんとう)にあいつ…いい子(こ)に育(そだ)ってました…」
朋也(ともや)「全部(ぜんぶ)、早苗(さなえ)さんとオッサンのおかげです…」
朋也(ともや)「でも、これからは、ちゃんと俺(おれ)の手(て)で育(そだ)てます」
朋也(ともや)「渚(なぎさ)のように、思(おも)いやりがあって、そして、強(つよ)い子(こ)に」
早苗(さなえ)「頑張(がんば)ってくださいね」
今日(きょう)までの日々(ひび)、どれだけ大変(たいへん)だっただろう。
ずっと押(お)しつけていた俺(おれ)に笑顔(えがお)でエールを送(おく)ってくれるなんて。
俺(おれ)はこれからの人生(じんせい)、どうしていけば、恩返(おんがえ)しができるだろう。
朋也(ともや)「何(なに)か…何(なん)でもいいですから、俺(おれ)にできることがあればやりますから…」
早苗(さなえ)「はい?」
朋也(ともや)「一生(いっしょう)かけて、恩返(おんがえ)ししたいです」
早苗(さなえ)「なら、幸(しあわ)せになってください」
ああ…
早苗(さなえ)さんは、いつだってそう。
いつだって、家族(かぞく)の幸(しあわ)せを思(おも)い、そして家族(かぞく)の幸(しあわ)せと共(とも)に幸(しあわ)せになれる人(ひと)だった。
この家族(かぞく)はみんなそうだ。
オッサンだって同(おな)じことを言(い)ってくれるだろう。
もし、渚(なぎさ)が生(い)きていたとしたら…やはり同(おな)じことを。
俺(おれ)も仲間(なかま)に入(い)れるだろうか。
人(ひと)を幸(しあわ)せにして、共(とも)に幸(しあわ)せになる家族(かぞく)の仲間(なかま)に。
今日(きょう)からはなれるだろうか。
幸(しあわ)せにしたい小(ちい)さな家族(かぞく)と共(とも)に。
朋也(ともや)「俺(おれ)、幸(しあわ)せになりますから…汐(うしお)と一緒(いっしょ)に…」
早苗(さなえ)「はいっ」
朋也(ともや)「はは…」
朋也(ともや)「何回(なんかい)も言(い)ってますけど、また言(い)いますね」
朋也(ともや)「俺(おれ)、早苗(さなえ)さんのこと大好(だいす)きっすよ」
ばんっ!
秋生(あきお)「てめぇ、人(ひと)の嫁(よめ)を口説(くど)いてんじゃねぇよーーーっ!」
耳元(みみもと)で大声(おおごえ)。オッサンがふすまを壊(こわ)すような勢(いきお)いで開(ひら)いていた。
朋也(ともや)「あ、いや…今(いま)のはその女性(じょせい)として好(す)きじゃなくて、人(ひと)として…」
早苗(さなえ)「え…女性(じょせい)としてのわたしは好(す)きじゃないんですか?」
朋也(ともや)「いや、好(す)きっす」
秋生(あきお)「てめえぇぇーーーーーーっ!」
朋也(ともや)「い、いや…その、なんていうのかな、ふたりきりでどうこうしたいっていう好(す)きじゃなくて…」
早苗(さなえ)「さっき、デートに誘(さそ)われました」
朋也(ともや)「あ、そうでしたね」
秋生(あきお)「ぐああぁーーーーっ!
ジェラシィィィーーーーーーっ!」
頭(あたま)を抱(かか)えて、床(ゆか)を転(ころ)げ回(まわ)る。
早苗(さなえ)「冗談(じょうだん)ですよ、秋生(あきお)さん。本当(ほんとう)ですけど」
朋也(ともや)「ぜんぜんフォローになってないっすよ」
早苗(さなえ)「ほらほら、秋生(あきお)さん。わたしは一生(いっしょう)、秋生(あきお)さんについていきますから」
秋生(あきお)「本当(ほんとう)か…?」
早苗(さなえ)「はいっ」
早苗(さなえ)「だから、朋也(ともや)さんとも仲良(なかよ)くさせてくださいね」
秋生(あきお)「ちっ…そういうんなら、仕方(しかた)ねぇな…心(こころ)は痛(いた)むが、目(め)を瞑(つぶ)ろう」
ようやく立(た)ち上(あ)がる。
秋生(あきお)「久(ひさ)しぶりだな、小僧(こぞう)」
朋也(ともや)「あ、ああ…そうだな」
立(た)ち直(なお)りの早(はや)い人(ひと)だった。
秋生(あきお)「なんだ、死(し)んだ魚(さかな)みたいな目(め)ぇしてた奴(やつ)が、復活(ふっかつ)してるじゃねぇか」
朋也(ともや)「そうかな…」
秋生(あきお)「よし、野球(やきゅう)しようぜ」
朋也(ともや)「たった今(いま)、長旅(ながたび)から帰(かえ)ってきたところなんだけど」
秋生(あきお)「てめぇ、早苗(さなえ)をデートに誘(さそ)っておいて、俺(おれ)の誘(さそ)いは断(ことわ)るってか」
朋也(ともや)「いや、や、やるよ…やればいいんだろ…」
秋生(あきお)「おぅっ」
秋生(あきお)「よーし、汐(うしお)よっ!
てめぇの親父(おやじ)の無様(ぶざま)な姿(すがた)をその目(め)に焼(や)きつけるがいい!」
朋也(ともや)「こらっ、嫌(いや)なものを焼(や)きつけさせるなっ!」
秋生(あきお)「そりゃ、おまえ次第(しだい)だろっ。打(う)てばいいんだからな!」
朋也(ともや)「そりゃそうだけどっ…」
早苗(さなえ)「汐(うしお)はどちらが勝(か)つと思(おも)う?」
汐(うしお)「…あっきー」
朋也(ともや)「マジっすかっ!」
秋生(あきお)「ふんっ、あいつは俺(おれ)の剛腕(ごうわん)を見(み)て育(そだ)ったんだぜ」
朋也(ともや)「よし、じゃあ、俺(おれ)は最初(さいしょ)の父親(ちちおや)の姿(すがた)として、その剛腕(ごうわん)から繰(く)り出(だ)される球(きゅう)を打(う)ってやるっ」
秋生(あきお)「ふっ、笑止(しょうし)」
朋也(ともや)「こいっ」
オッサンがモーションに入(はい)る。
1…
2の…
朋也(ともや)「3っ!」
カィーーーーーーーンッ!
快音(かいおん)を残(のこ)して、白球(はっきゅう)は空(そら)に消(き)えた。
秋生(あきお)「なっ…んなアホな…」
朋也(ともや)「アホはあんただよ…」
…パリーーン。
アホはふたりだった。
その日(ひ)は、古河(ふるかわ)の家(いえ)に泊(と)まった。
食卓(しょくたく)には、パーティーのように豪勢(ごうせい)な夕食(ゆうしょく)が並(なら)んで、みんなで食(た)べて…
俺(おれ)とオッサンは酒(さけ)を飲(の)んで…大声(おおごえ)で騒(さわ)いで…
楽(たの)しい夜(よる)だった。
………。
……。
…。
夜(よる)…
話(はな)し声(ごえ)が聞(き)こえて、目(め)が覚(さ)めた。
酔(よ)いつぶれて…そのまま寝(ね)てしまったのだろう…
電気(でんき)は消(き)えていた。
声(こえ)は…オッサンと早苗(さなえ)さんのものだった。
秋生(あきお)「早苗(さなえ)よ…」
秋生(あきお)「おまえも…人(ひと)のことは言(い)えねぇだろ…」
秋生(あきお)「おまえだって…」
秋生(あきお)「あの日(ひ)から泣(な)いてねぇ…」
早苗(さなえ)「よく、知(し)ってますね」
秋生(あきお)「あたりまえだろ…俺様(おれさま)を誰(だれ)だと思(おも)ってんだ…」
早苗(さなえ)「わたしは…」
早苗(さなえ)「やることがありましたから…」
早苗(さなえ)「だから、よかったです…」
早苗(さなえ)「自分(じぶん)を見失(みうしな)わないですみました…」
秋生(あきお)「でも…それも終(お)わっちまったな…」
早苗(さなえ)「はい…」
秋生(あきお)「5年(ねん)かよ…」
秋生(あきお)「長(なが)い…お勤(つと)めだったな…」
早苗(さなえ)「はい…」
秋生(あきお)「ご苦労(くろう)さん」
早苗(さなえ)「いえ…」
早苗(さなえ)「わたしたちは…家族(かぞく)ですから」
秋生(あきお)「ああ…そうだな…」
早苗(さなえ)「はい…」
秋生(あきお)「だから、もう、泣(な)け」
早苗(さなえ)「何(なに)がです…?」
秋生(あきお)「おまえは、よくやった」
秋生(あきお)「今度(こんど)はおまえが泣(な)く番(ばん)だ」
秋生(あきお)「どうしようもなくなっても…」
秋生(あきお)「俺(おれ)が助(たす)ける」
秋生(あきお)「おまえが泣(な)きやむまで、そばにいてやる」
秋生(あきお)「だから、泣(な)け」
早苗(さなえ)「………」
その日(ひ)、初(はじ)めて、俺(おれ)は早苗(さなえ)さんの弱(よわ)さを知(し)った。
子供(こども)のように泣(な)く、早苗(さなえ)さん…
そして、それを何(なに)も言(い)わず見守(みまも)るオッサン…
そのふたりに俺(おれ)は、一生(いっしょう)の家族(かぞく)でいることを誓(ちか)った。
翌朝(よくあさ)。
開店(かいてん)の準備(じゅんび)を始(はじ)めるオッサンの怒鳴(どな)り声(ごえ)で目(め)を覚(さ)ます。
汐(うしお)は毛布(もうふ)にくるまって、眠(ねむ)ったままでいた。
朝(あさ)の光(ひかり)を受(う)けるその姿(すがた)が、本当(ほんとう)に天使(てんし)のように見(み)えた。
朋也(ともや)(親(おや)バカだ…)
自分(じぶん)を鼻(はな)で笑(わら)ってから、今後(こんご)のことを考(かんが)え始(はじ)める。
汐(うしお)との生活(せいかつ)。
きっと、予想以上(よそういじょう)に大変(たいへん)だろう。
でも、一番大変(いちばんたいへん)な時期(じき)は、早苗(さなえ)さんが面倒(めんどう)を見(み)てくれた。
これから迎(むか)えるどんな苦労(くろう)だって、早苗(さなえ)さんの苦労(くろう)の比(くら)じゃないんだ。
それを考(かんが)えると、どんな困難(こんなん)にだって、立(た)ち向(む)かっていける気(き)がした。
それに苦労(くろう)もあるだろうけど、楽(たの)しいこともそれ以上(いじょう)にたくさんあるはずだった。
家族(かぞく)で暮(く)らすということは、そういうことだ。
俺(おれ)はあの日(ひ)、渚(なぎさ)とふたりで暮(く)らし始(はじ)めて…そのことを誰(だれ)よりも経験(けいけん)した人間(にんげん)のはずだった。
けど、汐(うしお)との生活(せいかつ)を始(はじ)める前(まえ)に、果(は)たさなければいけない約束(やくそく)があった。
仕事(しごと)のほうは、頼(たの)み込(こ)んで、もう一日(いちにち)だけ休(やす)みをもらおう。
そして、今日(きょう)はその約束(やくそく)を果(は)たしにいこう。
汐(うしお)を寝(ね)かせたまま、部屋(へや)を後(あと)にする。
早苗(さなえ)「あ、起(お)こしてしまいましたか」
朋也(ともや)「いや、いいっすよ。なんか、俺(おれ)にできることありますか?」
早苗(さなえ)「いえ、騒(さわ)がしいですけど、休(やす)んでいてください」
朋也(ともや)「いや、これからもうひとつわがままを言(い)ってしまうので、手伝(てつだ)わせてください」
早苗(さなえ)「いえ、手伝(てつだ)ってもらわなくても、わがまま聞(き)きますよ」
早苗(さなえ)「なんでしょうかっ」
朋也(ともや)「ええと、それじゃ、お言葉(ことば)に甘(あま)えて…」
朋也(ともや)「夕方(ゆうがた)まで…」
いや、もう少(すこ)し時間(じかん)が欲(ほ)しい。
朋也(ともや)「…明日(あした)の朝(あさ)まで、汐(うしお)を預(あず)かってほしいんです」
早苗(さなえ)「はい、構(かま)いませんよ」
朋也(ともや)「すみません。最後(さいご)にしなくちゃいけないことがあるんで」
早苗(さなえ)「仕事(しごと)じゃなくてですか?」
朋也(ともや)「はい」
早苗(さなえ)「お父(とう)さんのことですね?」
さすが早苗(さなえ)さん。察(さっ)しがいい。
朋也(ともや)「ええ、そうです」
朋也(ともや)「ふたりきりで、話(はな)したかったので」
早苗(さなえ)「はい。ゆっくりしてきてください」
その後(しり)、事務所(じむしょ)に連絡(れんらく)をして、無理矢理(むりやり)さらに一日(いちにち)休(やす)みをもらった。
その代(か)わり、客(きゃく)の入(はい)りが多(おお)い朝(あさ)の間(あいだ)、古河(ふるかわ)パンの手伝(てつだ)いをさせてもらった。
正午(しょうご)近(ちか)くなって客足(きゃくあし)が途絶(とだ)え始(はじ)めると、先(さき)に上(あ)がらせてもらう。
そして汐(うしお)に、翌朝(よくあさ)には迎(むか)えにくることを告(つ)げて、古河家(ふるかわけ)を後(あと)にした。
向(む)かう先(さき)は実家(じっか)だった。
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